Lesson 3
あの時、土方さんは私に言った。
私は虚勢を張り、その言葉から目をそらした。目をそらして…忘れるつもりだった。なのに、寝ても覚めても頭にフワッと湧いてくる。自分が思っている以上に、痛いところを突かれたということなのだろう。先を考えると不安で、心配で……仕事すら手が付かなくなる。
そわそわと落ち着きのない心は、必然的に私の足を掬った。
「っあ」
―――ガシャンッ
「あらまぁ、洗ったばかりのお盆が…。紅涙ちゃん、怪我はないかい?」
「はい……すみません。」
「最近調子が悪そうじゃないの。大丈夫?」
「はい、……気を付けます。」
そんな自分を想像していたら、私はいつの間にか眠りについていた。あれは一体…何時くらいのことだったんだろう。
私を信頼して下さい――
それが何より嬉しいのです。
『…紅涙、』
土方さんの声がする。私は「何ですか?」と返したのに、その声は周りの音に掻き消されて、前を行く土方さんには届かなかった。
―――バタバタ…
―――ドタドタ…
あわただしい屯所内。女中仲間の一人は、風呂敷で包んだ大きな荷物をどこかに運んでいる。
―――ドンッ
「わっ、」
「あら、ごめんよ。紅涙ちゃん。」
今ぶつかった人も女中仲間の一人。「大丈夫です」と微笑み返す間もなく、彼女はスタスタと足早に荷物を抱えて歩いて行った。
「皆さん、あわただしいですね。」
「今日一日にしかねェからな。っと。」
土方さんと話している間も、女中仲間は私達にぶつかりながら通り過ぎていく。中には隊士達も混じっていた。だけど運ぶ荷物は可愛い柄の風呂敷ばかり。おそらく女中の荷物運びを手伝っているのだろう。
「?」
ふと、煙草の匂いに気付く。いや、煙草の匂いがしてきた。土方さんが開け放たれた広間を見ながら、煙草を吸っている。
「みんな、お前と違って着物の数も多いんだな。それだけ持ち出すもんも多いってことか。」
フンッと私を馬鹿にしたように笑う。私も同じような顔で土方さんにフンッと鼻で笑い、
「土方さんに言われたくないですねー。普段着、藍色の着流ししか見たことありませんけどー?」
「俺に休みはねェからいいんだよ。そんなことより、」
煙草を片手にアゴでさす。
「お前の荷物、運ぶぞ。」
「……。」
いつの間にか、私の部屋の前に立っていた。他の部屋と同様に障子を開け放たれ、荷物が三つ見える。ああそうか…、私もまとめたんだった。
「もう今日なんですね……。」
私達が屯所から出される日。
「……なんだか、」
「ん?」
土方さんは咥え煙草で私の荷物を掴み、私はそれをまるで他人事のように見ながら呟く。
「なんだか…ほんとの引越しみたいですね。」
ただでさえ寂しいのに、どの部屋もガランとしていることで余計に寂しい。
土方さんは両手と肩に私の荷物を掛けて、「バカ言うなよ」と笑い捨てる。
「女中に引っ越されちまったら、真選組が回んねェから。」
『…そういうことを言ってるじゃありません』、そう言おうと思ったけど……
「いちいち暗くなんなよ。…面倒臭ェ女だな、お前は。」
ようは、『心配するな』と言ってくれようとしていることに気付いた。
…回りくどい言い方をする土方さんも、十分に面倒くさいですけどね。でも……ありがとうございます。
土方さんの顔を見上げた。突きつけられるように、荷物を一つ渡される。
「一個くらい持て。お前の荷物だろうが。」
「…はーい。」
「ったく。」
荷物を受け取る。土方さんは咥えていた煙草を、都合よく置いてあった灰皿に押し付けた。煙草はジュッと小さな音と煙を残して、その火を消す。
「行くぞ。」
私は土方さんの後ろを歩きながら、屯所を出た。
どこかの道を歩いて、どこかの角を曲がる。道は複雑で、途中までしか覚えられなかった。
「と、屯所ってどっちでしたっけ?」
「覚えなくていい。」
「えっ、でもそれじゃあ帰る時が……」
そこまで口にして、『ああこれは…』と思う。
「帰る必要がない、……からですか?」
わざと複雑にして、帰れないようにしているのか。
それに気付いた瞬間、足が止まった。土方さんも足を止め、溜め息を吐きながらこちらへ振り返る。
「違う。何でお前はそんな風にしか考えらんねェんだよ。」
「…だって、『覚えなくていい』って…言うから。」
うつむく。声が掠れた。
「……いいか、紅涙。」
「…?」
土方さんの声に顔を上げる。土方さんはジッと私を見た後、背中を向けて歩き出した。
「道が複雑な場所を選んだのは事実だ。だがあくまで極力、春雨との接触を避けさせるため。」
「…それだけ?」
「それと、」
私は土方さんの言葉を聞き取るため、再び足を進める。
「それと、簡単な場所にしたら世話好きの女中が屯所へ戻ってきちまうかもしれねェから。気になって仕方ないとか言ってな。」
「……ふふ。それはありえるかも。」
「だろ?」
話しながら、土方さんは空いた片手で器用に煙草へ火をつける。
「……あと、」
「まだあるんですか?」
「ある。俺達だって色々考えて決めてるっつーことだ。まァ最後のは、お前が道を覚えなくていい理由だが。」
「?」
「全部済んだら、」
土方さんは煙草を吸い、気持ち良さそうに空へ煙を吐く。
「全部済んだら、俺がお前を迎えに行くから。…だから覚える必要なんてねェんだよ。」
「……っ、」
さがに、涙が浮かんだ。
嬉しい言葉のはずが、私にはとても悲しい言葉だった。
離れるんだ、って。この荷物を置いたら、土方さんは行っちゃうんだって…実感して、…涙が出た。
「っ、」
私は土方さんの隣で頷く。『わかりました』、
そう口にしたかったけど、喉が動いてくれなかったから、大きく、何度も頷いた。うつむいて目を擦った時、土方さんが私の頭を撫でてくれた。優しい、大きな手だった。
「…ちゃんと戸締りしろよ?」
仮住まいの小さなアパートに辿り着く。
女中の人数分だけ借りてくれた部屋は、屯所で住んでいる部屋よりも広かった。
「飯、ちゃんと食えよ。」
私の部屋の玄関口で土方さんが言う。荷物を玄関先に置いた土方さんは、一歩も部屋に入らなかった。
「…土方さんも、私達がいなくても、ちゃんとした生活をしてくださいね。」
「わァってるよ。」
二人とも笑っているのに、どこか上辺の笑みで…。空気が悪くて仕方ない。
こんな会話だと長くは続かないな…。そう思っていたら、早くも土方さんが終わらせた。
「…それじゃあ、行ってくる。」
「……、…はい。」
蚊の鳴くような声に、土方さんが苦笑する。
「覚悟出来てたんじゃねェのかよ。」
「っ、で、出来てますよ!だから私は一人暮らしが不安でっ」
「はいはい。」
「っっ…ほんと……ですからっ。」
唇を噛む。眉を寄せ、目を伏せた。
悔しいからじゃない。これ以上話すと、別れが苦しくて今にも泣き出してしまいそうだった。…すると、ふわっと煙の香りが鼻をかすめる。
「っ…土、方さん……、」
土方さんが抱き締めてくれた。背中に回る腕が、ギュッと私を締めつける。これまで耐えてきたものが私の中から溢れ出しそうになって、
「っ…!」
私は土方さんを、身体が混じり合ってしまいそうなほど強く抱き締めた。
「…浮気、すんなよ。」
私の耳元で、ぼそりと言う。馬鹿だな、そんなの…するわけないのに。でも、
「…それは…わかりません。」
「んだと?」
「だから、」
私は土方さんの腕の中で顔を上げる。
「早く…確認しに来てくださいね。」
「……、」
土方さんはキョトンとした顔をしていたけど、
「ああ。そうする。」
小さく笑った。私も笑う。自然に近付いて、唇が重なった。今までで一番、優しいキスだった。
唇が離れる時、
「ご武運を…。」
震える声でそう言って、土方さんは優しく笑い、小さく頷いて……部屋から出て行った。
そう、出て行った。
出て行ったから、帰ってくる。…はずだったのに。
「紅涙ちゃん、もう中に入らないと風邪ひくわよ。」
「あと少ししたら入ります。」
「紅涙ちゃん…、」
土方さんは、私を迎えに来なかった。いつまで経っても、どれだけ経っても。
「…風邪ひいたら副長さんも困るんじゃないかい?」
「……、」
「ね?だから――」
「あと、少しだけですから。」
声を掛けてくれた女中仲間の先輩は、「そう…」とだけ言って部屋へ戻って行った。今日もまた、夜が来る。
「…嘘つき。」
土方さんの、嘘つき。私、待ってるのに。帰り道、わからないのに。
「どうして…迎えに来てくれないんですか…。」
土方さんは、私を迎えに来なかった。いつまで経っても、どれだけ待っても…。
だから私はその日、意を決して街に出た。屯所へ戻るために。土方さんが迎えに来ないのなら、自分で帰るしかない。
「あのっ…、真選組の屯所ってどっちですか?」
比較的、忙しくなさそうな人に声を掛けて道を尋ねる。するとその変わった髪色の人は、「真選組?」と首を傾げた。
「何?何の用事?誰か連行すんの?」
「い、いえ…違います。」
「あ、ストーカー系なら大江戸警察の方がいいんじゃね?」
「ちっ違います!私はただ屯所に行きたいだけでっ…」
「屯所に?ふーん…変わってんな。」
初対面なのに、なんかちょっと失礼な人…。
「じゃあ送ってってやるよ。」
「えっ、いいんですか!?」
「いいよいいよ、もう帰るとこだったし。」
前言撤回!私は彼が押していた原付に跨った。
「にしてもアンタ、物好きだな。あんなとこに行きてェなんてよ。」
「そう…ですか?」
「行ったって何もねェぞ?」
ヘルメットをかぶり、エンジンをかける。
これでやっと屯所に帰れるんだ。みんな、どうしてるかな。怪我、ひどくなかったのかな。
土方さんには、会ったらまず叩いてやろう。叩いて、叩いて。どうして迎えに来てくれなかったんですかって。夢見が悪くなるくらい、責めてやろう。
私の頭の中は、これからしたいことが一杯に詰まっていて、心臓は高鳴る一方。連れて行ってくれる彼の声は、風と私の鼓動に消えそうくらい遠かった。
「着いたぞー。」
待ちわびた声に、原付から飛び降りる。連れて来てくれたお礼すらも後に、私は屯所の入口の方へ走って行った。
「…屯、所…」
「おう、そうだぞ。お前の行きたがってた真選組屯所。」
そう……だよね。そのはず…なんだけど……門に掲げられていたはずの札がない。『真選組駐屯所』と書かれていた、あの札がない。
「なん…で?」
門も堅く閉ざされている。なぜか長い時間、誰も中へ入れていない雰囲気を感じた。もしかしたら、そこにある花のせいかもしれない。
閉ざされた門の前に並べられている、たくさんの……花。
「……、」
「何?お前、まじでここに用があったわけ?」
「……。」
「つーかお前、知らねェの?」
送ってくれた彼がしつこく話しかけてくる。私は呆然とその場所を見つめていた。
「ここは確かに馬鹿な犬ばっか住んでる屯所だった。」
耳を澄ませば、中から隊士の声が聞こえてきそうなのに。
「横暴でよ、喧嘩っ早くて、街を守るどころか破壊したりして。」
目を閉じれば、『何してんだ』って、今にも誰かが私の名前を呼んでくれそうなのに。
「まァ…今から思えば、悪い奴らじゃなかったけど…」
なのに。
「ほんと……最期まで馬鹿な忠犬だったよ、アイツらは。」
……嘘だ。
「…じない。」
「ああ?何だって?」
こんなの、
「信じない…っ!」
みんなは?私が知っている真選組は?
「信じないってお前…、もういねェんだから仕方ねェだろうが。」
土方さんは?
「そんなのっ…、信じない!!」
「おいおい、何ですかこの子ォー。」
土方さんはどこ?
「土方さんっ…」
「え?ああ、アイツの知り合い?あー…なるほどな、そりゃあ……」
彼が初めて言葉を濁す。そして、
「お気の毒様…、だな。」
耳にした瞬間、私の身体の中で何かが破裂した。膨れ上がっていたものが爆発した。頭の中がチカチカして、目の前が真っ白になる。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!まるで警告音のように否定の言葉が頭に響いていた。しまいには息まで苦しくなってきて、喉が詰まり始める。何か声を出さなきゃいけない。そう思った時、
「ッ!!!」
私は、目を開いた。目の前には天井が見える。
「……っ…え…、……え?」
薄暗い部屋だ。いつも私が寝ている屯所の部屋。
待って…、……どういうこと?自分の荒い息が聞こえる。苦しいと思えば、心臓の辺りを押さえるように右手が乗っていた。
「ゆ、め…?」
徐々に覚醒する。あれは、夢だったのか。
「…良かっ…、た…!」
まるで現実のような夢だった。二度と見たくない、酷い夢。でも夢なら良かった。本当に……良かった。
深呼吸する。時計を見ると、まだ深夜二時。朝まで遠い。
「…、もう…寝れない…。」
頭が覚めたせいもあるが、ここからまた何事もなく目を閉じることは怖くて出来なかった。また同じ夢を、夢の続きを見てしまいそうで。
私は部屋を出て、涼しい風の入る廊下に座った。すると一室だけ、部屋に明かりが灯っている。
「まだ起きてるんだ…、土方さん。」
そう口にした時、土方さんが本当にあの場所にいるのか不安になった。もしこれも夢の続きだったら…?
私は座ったばかりの廊下に立ち、そっと土方さんの部屋へ向かった。
明るい部屋の前で耳を澄ます。何か軽くて小さな音が、トントンと鳴る。これはきっと灰皿に煙草を叩く音だ。吐き出す息の音も聞こえてきた。
ああ…よかった、土方さんはここにいる。ここで、生きている。良かった。私が一人胸を撫で下ろしていると、
「どうした。」
部屋の中から声がした。
「まだ起きてたのか?紅涙。」
「!?」
バレてる…。
「入れよ。」
静かに帰る予定だったんだけどな…。私は渋々「失礼します」と足を踏み入れた。
土方さんは綺麗に敷かれた布団の横で机に向かっている。昼間と変わらず、こちらに背を向けたままだ。いつもなら顔を見たいと思うけど、今はこの背中だけで十分だった。
「土方さん…、」
「ん?」
声を掛けて、返してくれる。
「……何でもないです。」
それだけで、十分。
よかった…。土方さんがいて、よかった。
「おやすみなさい。」
障子を閉める。いや、閉めようとした時、
「…どうした?」
土方さんが煙草を消して振り返った。
「何かあったのか。」
「……いえ、何も。」
「何もなくねェだろ、そんな顔して。」
「えっ…、ど、どんな顔してます?」
「いいから。言ってみろ、何だ?悪い夢でも見たのか。」
ここで頷いたら笑われる…。だけど強がる気にもなれない。
私は小さく頷いた。案の定、土方さんが鼻先で笑う。
「ガキか。」
返す言葉もありません…。
黙っていると、土方さんがうんと伸びをする。そのまま布団に寝転がって片肘をついた。私を見て、自分の前をポンポンと叩く。
「……。」
私は呼ばれた場所で横になった。
「で?どんな夢を見たんだよ。」
私の傍で片肘ついた土方さんが言う。私は首を横に振った。布団に髪が擦れ、ズリズリと聞こえる。
「言いたくねェのか。」
「言うのも…嫌で。」
「…ならいいが、嫌な夢は人に言わねェと正夢になるって言うよな。」
「……、」
たとえ迷信でもそれは怖い。私は、
「…土方さんが………」
ついさっき見た夢の話をした。
話してる間、土方さんは相槌を打ちながら私の髪で遊ぶ。指先に巻きつけたり、指で梳いたり。そのせいか、…いや、悪い夢を吐き出したせいか、私の瞼はどんどん重くなってきた。
「私…どうしたらいいのか…わからなくて…、」
「ああ。」
「もし土方さんが…、いなくなったら……私…」
あんなに眠りたくなかったのに。頭がぼんやりして、ウトウトとする。話す言葉も怪しくなった頃、
「…なァ、紅涙。」
土方さんが私を撫でるように話しかける。その声は優しく、頭の中で滲むように響いた。
「つまんねェ心配なんてせずに、もっと俺を信じろよ。」
「信じて…ますよ…?だから…いなくなった時…が、…悲しくて…」
「大丈夫。」
言葉と一緒に、土方さんは私のまぶたの上に手を置いた。
「お前は何も心配しなくていい。大丈夫だ。」
まぶたに乗る手の程よい重さと温かさが心地よく、私は誘われるように意識を手放した。
身体半分に触れている土方さんの体温が、幸せで、愛おしくて。この時間がずっと続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。