近距離先生2

11時のお昼

「…土方先生、」

教室を出た後、

「なんだ。」

土方先生は振り返らずに返事をして、廊下を曲がる。

「私、ホームルームの後は…何をすればいいんでしょうか。」
「授業の準備だろ。」
「そう……ですよね。」

そうなんだけど…職員室に戻っていいのかな。そこで時間になるまで準備しておく…感じでいいの?でも私、今日はまだ授業を受け持たないだろうし……

「…。」

わからない。
教師たるもの、授業をしてホームルームにさえ顔を出していれば、後は自由…なんて簡単な日々じゃないことだけは分かってる。

ただその合間の時間の使い方を教わらないと、どう動けばいいのか検討がつかない。
たとえばこの後、どこにいればいいかとか。
そんな子どもに対する指示のようなものが、今はすごく欲しい。

「…、」

だからと言って、それを土方先生に聞くのは……気が引ける。

『…はぁ』

あの呆れてうんざりしたような溜め息をもう一度吐かれるのは嫌だ。これから少なくとも1年間は担任と副担任の仲。極力迷惑をかけないよう上手くやっていきたい……。

「他は?」
「っ!?」

考え込んでいた脳内に声が突き刺さる。
顔を上げると、前を行く土方先生が階段の前で振り返っていた。

「他にも聞きたいことがあるんじゃないのか。」
「えっ…、…、」
「俺に答えられる範囲であれば答えるけど。」
「っ…、…、」

どう…しよう、聞いてもいいのかな。つまらないことでも…せっかく尋ねてくれてる今なら……大丈夫…だよね。

「あの…、…、」
「…。」
「…私は、この後…職員室にいてもいいんでしょうか。」
「ああ……そうだな。同じ科の教師に聞くといい。早雨は『情報』だろ?」
「はい。」
「なら3階の準備室に行け。そこで指示を仰げば分かる。」
「わかりました、」

聞いてよかった…。少しホッとした。

「準備室はそこを曲がって、先の階段を上った右手にあるから。」
「あ…」
「なんだ?」
「いえ…、…。」

そうだよね…。当たり前だけど、土方先生は一緒に行ってくれないんだ。

「……ありがとうございます。」

…心細いな。

「…。」
「…?」

なんだろう…。
なぜか土方先生にジッと黙り見られている。

「あの……、…何か?」
「声、小っせェな。」
「え」
「アイツと話してた時は、そんな声じゃなかっただろ。」
「アイツ…?」
「甘党バカ。」
「ああ…、」

銀八先生。

「あの時は……、…そうですね。」
「…お前がこれから向かう情報科の準備室には、なかなかストイックな教師がいる。嘘でも声張って行けよ。」

そっか…、私が教育実習に来た頃の先生はいないのか。

「わかりました。」
「じゃあまた後で。」

土方先生が階段を下りて行く。その後ろ姿を見送りながら、思った。

「…優しい人かも。」

気難しそうな雰囲気だけど、それは見た目と口調だけ。本当はとても優しい人…なのかもしれない。何も言い出さない私に気付いて話を聞いてくれるくらいだし…。

「冷たいようでも…ちゃんと周りのことを見てるんだな…。」

私、良い先生の下についたかも。

……一方。

「アナタが来てくれて助かったわ!ずっと人手が足りてなかったの。」

情報科の準備室にいた先生は、よく喋る人だった。
私の顔を見るや否や、待ってましたとばかり手を叩いて喋り出す。

「うちの学校によく来てくれたわね~!情報科の教師ってまだ少ないじゃない?だから今まで他の先生に助っ人として掛け持ちしてもらってたのよ。信じられる~?信じられないでしょ。」
「す、すごいですね…、」

まくし立てるような口調に、呆気に取られながらも相づちを返す。

「だからアナタが来てくれて本当に嬉しかったの!えっと名前は…」
「あっ、自己紹介が遅れました、早雨 紅涙と申します。」
「早雨さんね。」
「はい!今日からよろしくお願い―――」
「あ~そういうのはいいわ。時間がもっいない。」

えー…

「それじゃあ早速だけど、次の授業までにこれをお願いできるかしら。」

目の前にドサッと音を立てて書類が現れた。

「机はここを使って。あとそっちのも頼みたいわ。提出させたノートなんだけど、全部に目を通してコメント書いていくの。」
「は、はい…わかりました。」
「それに次のクラスの授業なんだけど、今はこの内容だからアナタは……」

次から次へと説明を受け、半ば意識を飛ばしそうになる。ただでさえ緊張で頭がいっぱいだというのに…

『お前がこれから向かう情報科の準備室には、なかなかストイックな教師がいる』

ああほんと…土方先生の言う通りだった。
でもこの先生は、おそらく忙しいことが嫌いではないのだろう。「忙しい」と口にしながらも充実感を得ている…ように見える。

「それじゃあ私は授業に行ってくるから。早雨さんは……そうね、11時くらいにお昼ご飯を済ませておいて。」
「えっ…」

11時!?

「じゅっ、11時ですか!?」
「なに?食べられるうちに食べておくのは基本よ。教育実習の時に言われなかった?」

…そうだった。
教育実習の時にも同じように言われて早弁したっけ。
職員室で食べるのが、すごく嫌だった記憶がある。
まだ誰も食べていない空間で一人食べ始めるのは、結構つらい。他の先生達は近くの机で仕事をしているし、たまに来室する生徒は驚くし……居心地が最悪だったな。

その分、今回は準備室があるから少しはマシかも。

「机に向かうだけの業務なんて、隙間時間にいつでも出来るでしょう?だから何が起きてもいいよう、お昼は必ず済ませておきなさい。ああ、あとここは飲食禁止だから職員室でね。」

結局、職員室かー…。

「…わかりました。」

憂うつだ。
いずれはこのタイムスケジュールも、この先生にも慣れるんだろうけど……今は早くも憂うつ。

「はぁぁ…。」

時計を気にしながら、与えられた業務をこなしてようやく11時。
精神的な面もあってお腹は空いていないけど、お昼ご飯を済ませるために職員室へ向かった。

自分の机に座り、何度目かの溜め息をこぼす。
幸いにも周りの席の先生方は不在。少し食べやすい環境だ。
―――カサカサ…
静かな空気の中、バッグからコンビニで買ってきたパンを取り出す。

「早雨ちゃんの昼飯、それだけ?」
「!?」

唐突な声に心臓が震えた。
いつの間にか、隣の席に銀八先生が座っている。

「お…驚かせないでください、銀八先生。」
「悪ィ悪ィ、つい心の声が出ちまった。つーか、」

グッと顔を近づけてくる。

「早くもお疲れモードじゃねェの?」
「えっ!?」
「目、充血してるぞ。」
「!」

慌ててバッグからポーチを取り出した。鏡には真っ赤な眼をした私が映っている。

「なかなかキツいか?」
「そう…ですね、少し。あ、でもこれは元からドライアイなのもあるんで。」

目薬をさす。しみて、痛い。

「あんま気負いすぎんなよ。初日から全力出しても意味ねェから。」
「ふふ、ありがとうございます。」

教育実習の時にも、銀八先生の言葉には何度も救われた。誰よりもそばで私を見守り、頑張らなくていいと背中をさすってくれた。
…そういう声を掛けてくれると、また少し頑張れるようになる。

「銀八先生は空き時間なんですか?」
「そ。だから早雨ちゃんがどうしてっかな~って。」
「よくここだと分かりましたね。」
「わかるだろ、ここか準備室の2択しかねェんだから。」
「確かに。」

笑いながらパンの袋を開ける。

「マジで昼飯それだけ?」
「そうですよ。」

頷いて、ひとくち食べた。すると、

「……。」
「…?」

銀八先生がパンを凝視する。またひとくち食べようとパンを動かすと、銀八先生の目も一緒についてきた。これってもしかして……

「…ひとくち食べます?」

食べたいのかな…?

「っえ!?」

銀八先生の視線がようやく私に移った。

「いいのか!?…いやでも悪ィよ。早雨ちゃんの貴重な昼飯なのに。」
「私、あまりお腹減ってませんから。何口でもどうぞ。」

パンを差し出した。途端に銀八先生の目が輝く。

「マジ!?いいの!?」

そこまで喜ぶとは…

「はい、なんだったら全部――」
「そりゃダメだ!無理してでも食わねェと倒れちまうぞ。…でも、」

私の手首を掴み、

「ひとくち貰うわ。」

自分の方へパンを引き寄せた。

「いや~助かる。俺さァ、今月もう金なくて。」
「もう?何に使ったんですか?」
「んー、パチンコ。」
「銀八先生…、」
「冗談だって。」

ほんとかなぁ…。

「早雨ちゃん、」
「はい?」
「見てろよ。」

銀八先生がパクッとひとくち、パンを食べる。どうだと言わんばかりに、食べている様子を私に見せてきた。

「なんですか?」
「ここだよ、ここ。」

指をさす。その場所は、かぶりついた歯型の場所。

「これ、れっきとした間接キスだろ。」
「間接…」

言われて見れば、わざわざ私が食べた場所を食べている。

「な?俺が食べた場所を早雨ちゃんが食べれば、またそれは間接キスなわけで、俺と早雨ちゃんの体内には互いの――」
「銀八先生、」
「なに?」
「変態が過ぎますよ。」
「なっ、酷ェェ!可愛い行為でしょうが!」
「どこか可愛いんですか!何より事の先の解説が一番おぞましいです!」
「おぞましい!?そこまで言う~!?」
「…ふっ、アハハ!」

銀八先生といると楽しい。
憂うつな気分も消える。
午後はきっと朝よりマシな時間を過ごせる。そう思えた。

…まぁ、そんなことはないのだけれど。

にいどめ