第六感+弱いのは誰
忙しくとも取り立てて変わりない時間軸の中で業務をこなしていく。
土方先生は変わらず淡々と仕事をして、変わらずカッコいい。それは一日が終わっても、なんら変わることはない。
「早雨、」
「はい!」
大半の生徒が帰宅した夕暮れの職員室。
プリントを採点していると、土方先生が辺りを見回しながら近付いてきた。
「D組の鍵が戻ってねェみたいなんだが知らねェか?」
「鍵…?」
記憶をさかのぼる。
生徒と掃除をして、今日は教室に誰もいなくなったのを確認してから私が締めたはず…だけど、
「確認してきます!」
絶対と言える自信はない。
立ち上がると、
「いい、俺が行ってくる。」
手で制された。
「でも私が締めてきたので…」
「採点中だろ?俺は手が空いてるから。」
『気にするな』
土方先生は小さく笑って職員室を出て行った。
「……優しい。」
職員室の扉を見つめながら呟く。そこへ、
「早雨ちゃん。」
「!?」
銀八先生が声を掛けてきた。
「な、なんですか…?」
もしかして今の状況、ずっと見られてた…!?
「ちょっと顔貸してくれ。」
「顔!?」
呼び出し!?怒られる!?
「なんでっ…」
「んな動揺すんなよ。大したことじゃねーから。」
銀八先生が笑った。
『大したことじゃない』と言いながらも、どことなく、まとう雰囲気がいつも違う。普段通りだらしないのに、どこかピリピリしているように感じた。
「…、」
「忙しいのか?」
「…いえ、大丈夫です。」
銀八先生の後に続き、廊下へ出た。
「仕事どうよ。」
日中と違って、静まり返る夕暮れの廊下に声が響く。
「仕事…ですか?」
「ここに来てから結構経っただろ。」
ペタンペタン。
銀八先生の履いているスリッパの音が、今日はやけに耳につく。
「キツいとかねーの?」
「…はい。少し余裕も出て、ようやく生活リズムを掴めたかなぁと思えてきたとこです。」
「そりゃ良かった。」
玄関口へ差し掛かった。
「あー…そこでいっか。」
銀八先生が立ち止まる。
「そこに座ろうぜ。」
アゴでさした。玄関口の一角、ロビーに作られた待機所だ。
机と椅子が設置されていて、机の隅には来客用の灰皿も備え付けられている。と言っても、ここで煙草を吸うような来客は見たことがないし、教師が休憩している様も見たことはないけれど。
「にしても今日も疲れたなァ~。」
銀八先生は「あー働きたくねェェ」と言いながら眼鏡を外す。なぜ着ているか分からない白衣のポケットから、おもむろに煙草を取り出した。…まさか。
「早雨ちゃん、そこの灰皿取って。」
「吸うんですか!?」
ここで!?
「吸うけど。…なんで?」
「こ…ここで吸ってる人、あまり見ませんよ?他の場所がいいんじゃないですか?ほら、非常階段とか。」
「あーそういうことなら大丈夫。俺、最近ここで吸ってるから。今や俺専用の休憩場所みたいなもん。」
アッハッハと得意げに笑う。
…教育実習の時も思っていたけど、銀八先生は妙にどっしり構えているところがある。度胸と言えばそれまでだけど、見ていると少しヒヤヒヤする。
「D組の生徒って今どんな感じよ。」
「え?」
「俺のクラス、いつまで経っても統一感ねェんだわ。」
「あー…D組は比較的まとまりがある方だと思います。Z組はどんな風に…?」
「個々のキャラが強烈すぎてさァ。ぶつかり合って、考えもまとまりゃしねェのよ。もうすぐ文化祭だってのに、頭痛ェのなんのって。」
咥え煙草でフワフワの銀髪頭を掻く。
…なんだ、銀八先生はこういう話をしたかっただけなんだ。
「やっぱアレか、早雨ちゃんみてェに新鮮な人材が入ったから上手くいってんのか。」
「ふふ、違いますよ。私がD組に就いた時から、既にあのクラスの生徒達にはまとまりを感じましたから。」
「へェ~…、」
灰皿に煙草を置く。
片肘をついて、手にアゴをのせた。
「どんな風に?」
気怠そうな目で私を見る。
「何を見てD組にまとまりを感じたんだ?」
「え…、…えっと…」
なぜか背筋が伸びる。面談されているかのような圧を感じた。
「その…土方先生がいると、教室内の統制が取れるというか…」
「アイツが怒鳴ったり殴ったり暴力的だからじゃね?」
「なっ…違います!!」
「!」
「す…すみません、つい声が大きく…。」
…今の声量は反省。でも、ちょっとビックリした。
「銀八先生も…そういう言い方をするんですね。」
「どういう?」
「土方先生が……悪い人…みたいな。」
「…他の教師から何か聞いたのか?」
「……『ここに長くいたいなら付き合い方を考えろ』とか、土方先生と一緒にいなくて済むようにしてあげたとか…そんなことを言われました。」
「なるほどねェ。」
煙草を口に咥える。
土方先生とは違う香りの煙が、風に混じって流された。
「で、それを聞いて早雨ちゃんは何も変わらなかったのか?」
「当たり前じゃないですか!だって私は一度も暴力的に感じたことなんてありませんし、ただただ良い先生だと……思ってますから。」
「…アイツが?」
「はい。…生徒にも慕われてますし、」
「…。」
銀八先生の視線が痛い。
「っ、…あんな理不尽な周りの目があるのは…すごく可哀相だなって…思ってます。」
「…。」
「っあ、あの、そういうことを私が偉そうに言うのは間違ってるって分かるんですけど、でもっ」
「早雨ちゃん。」
「!」
呼ばれて、ヒヤッとした。
銀八先生の声音が真剣で、してはいけないことを咎められる前触れのように感じた。
「は、い…。」
「一つ聞きてェんだけど。」
「…なんでしょう。」
「昨日、早雨ちゃんが職員室を出て行った後を土方が追いかけてきただろ?」
「…はい。」
「あの時、何があった?」
「……え?」
「二人で何してた?」
「な…に…って…」
どうしてこんな胸騒ぎがするんだろう。
話す以外に何もなかったし、やましいことなんて一つもないのに…
「何も…ありませんよ。」
「話はしただろ?」
銀八先生の目が私を追い詰める。
「話は…しました。けど大したことは…話してません。」
「…。」
「っあのっ、もし昨日のせいで土方先生に変な噂が立ってるなら誤解です!出て行った私が悪くてっ」
「落ち着け。」
「っ、」
「……あのな、」
銀八先生の息遣いに、怖いくらい緊張した。
確実にいつもの銀八先生じゃない。ダラダラフニャフニャした雰囲気なんて微塵も持っていない。
「アイツのことを慕うだけならいい。…だが、」
今私の前にいるのは、
「アイツだけは、やめとけ。」
私の知らない、銀八先生だ。
「……どういう…意味ですか…?」
「そのままだ。」
「…、」
なんとなく分かってる。
銀八先生はお見通しなんだろう。私が土方先生に、尊敬とは別の感情をも持ち合わせていることを。…それなら、
「……どうして…?」
ごまかさない。
「どうして…ですか?」
「土方はダメだ。」
「何が…?やっぱり…同じ学校に勤める教師だから…」
「それは」
「わかってます…!だから私も、気持ちは自分だけのものにしておこうって決めて」
「それもやめろ。」
「っ!」
銀八先生の言葉に思考が止まった。
頭の中で聞こえていた土方先生の声も、目の裏にある土方先生の姿も、全てが止まって…色褪せていくように感じる。
「お前の中にあるアイツへの気持ちは全部消せ。」
「先…生…?」
「とにかくやめろ、アイツは。」
「っ……なん…で…、…、」
声が掠れる。
あまりに真っ直ぐな反対に、叶えようともしていない私の気持ちが震えた。
「なんで…ダメなんですか…?」
「…。」
「言ってくれないと…っ、分かりませんよ…!」
「…そういう時は言っても分かんねェだろ。」
銀八先生が立ち上がる。信じられないことに、ここから立ち去ろうした。
つまり銀八先生は、私にこれを言うためだけに呼び出したということ。
「っ、銀八先生っ!!」
いつものようにダラしない背中を呼び留める。
「…。」
足は止めてくれたけど、振り返りはしなかった。
もう一声掛けようと息を吸った時、
「…お前が傷つくからだよ。」
銀八先生が呟く。
「だから…やめとけ。」
その小さな声は、静かすぎるこの場所に十分で。
私は立ち去る銀八先生の背中に、再び声を掛ける気など失せてしまった。
「なんなんですか…。」
どうして…どうしてそんなこと言うんですか…。
「『傷つく』って…っなんですかっ…!」
この気持ちを、ただひとり持っていることすら許されないなんて。
「どうしてダメなんですか…っ!」
苛立ちなのか、悲しみなのか。
わけの分からない涙が込み上げてきた。
「…早雨?」
職員室に戻ると、鍵を探しに行っていた土方先生が戻っていた。
「どうしたんだ、お前。」
「…何がですか?」
「目が赤いぞ。」
「…、」
やっぱり赤くなってるんだ…。
「ちょっと目をこすっちゃって。」
「痛ェのか?」
「いえ…もう大丈夫です。」
「…、」
じっと見られる視線に、
「そんなに見ないでください、恥ずかしいんで。」
小さく笑いながら顔を背ける。
半分本気で半分嘘。
そんな私の背後で、土方先生は溜め息を吐いた。
「わかった。…話は変わるが、早雨。D組の鍵を知らねェか?」
…え?
「教室になかったんですか?」
振り返る。
土方先生は身の回りの書類を持ち上げ、鍵を探していた。
「なかった。というか鍵が閉まってた。」
「閉まってた…?じゃあ鍵穴に刺さったままとか…」
「ない。一体どこに――」
「あー悪ィ。」
「!」
「…。」
銀八先生の声に心臓が跳ねた。
「これ戻しとくわ。」
ポケットから何かを取り出す。
鍵の保管場所まで歩くとD組のところを触り、その場を離れると探していたD組の鍵が戻っていた。
「え…」
「なんでテメェが持ってんだよ!」
「うちのと間違えちゃってさァ。持ってっちゃった。」
「DとZをどう間違えんだ!」
「悪いって~。」
そんな銀八先生を土方先生が責める。
数分前の私なら、間に入って仲裁していた。だけど今は、二人の姿をあまり目に入れたくなくて、プリントの採点に集中した。
しばらくして、
「仕事熱心だな。」
声に顔を上げる。
土方先生が両手にコーヒーを持ち、立っていた。
「疲れねェか?」
「まだ平気ですよ。」
「少しくらい休憩しろよ。」
手に持っていたコーヒーを私の机に1つ置く。
「おごり。」
「あ…」
嬉しい。
「ありがとうございます…。」
手に取る。なんということのない温かさなのに、胸が苦しくなった。
「今日はそのくらいにして帰ったらどうだ?」
帰る…?
「まだそんな時間じゃ……っえ!?」
話しながら窓を見て驚いた。すっかり日が暮れ、夜になっている。
「今って…」
「19時。」
「19時!?もう!?」
そんなに没頭してた…!?
「帰るか?」
「あ…いえ、明日に返す予定のプリントなので、どうしても今日終わらせたくて。」
「あとどれくらいだ?」
「うーん…30分くらいですかね。」
残っている未採点のプリントをめくり、土方先生を見た。
「もしかして今日の日直ですか?」
職員室の中にも日直制度はある。
用務員が帰った後の戸締りチェックをしなくてはならず、職員室はもちろん、校舎や玄関、校門の鍵締めまで責任を持つ。
「まァ……そんなとこだ。」
「それなら私が締めて帰りますよ。土方先生はお先に」
「いい。」
私の声を遮り、自分の席へ座る。
「俺も付き合う。」
「でも遅くなりますし…」
「気にすんな。やることなんて、いくらでもある。」
言うや否や、卓上の書類を手に取った。
「お前は気にせず、自分のペースで採点すればいいから。」
土方先生…、
「…ありがとうございます。」
こんなに良い人なのに。
『アイツだけは、やめとけ』
『もうアイツに対する気持ちは全部消せ』