王子と姫と、7

月に叢雲、花に風

いきなり登場したパティシエに固まる。
しかしパティシエは私達を見て、

「あーなるほど。」

早々と何かを納得した。

「今年はもう始まっているんですね。」

さすが!話が早い!

「そうなんです!しかも今年は面倒なことになってまして…」
「『面倒なこと』とは?」
「中で話す。悪ィんだが少し休ませてもらえねェか?」
「うちでですか?」
「ああ。屯所は占拠されちまって、ここくらいしか安全な場所がねェんだ。」
「そういうことでしたか。」

パティシエは快く頷いた。

「うちで良ければ、いくらでも休んでいってください。」
「ありがとうございます!」
「恩に着る。」
「ただ、今はケーキの仕込みで少々散らかってますが…」
「俺達は問題ない。」
「はい!むしろ幸せです!良い香りがしていそうで!」
「ハハハッ、ではこちらからどうぞ。」

締まっているシャッターの横を通り、パティシエは裏口へ案内する。
扉を開けて中へ進めば、予告通り砂糖の甘い香りが……と期待していたけれど。

「うっ、この匂いは…!」

甘くない!すっぱい!!
バターの香りと何やらすっぱい匂いが混じっている。おかしい…。見たところ、まだスポンジを焼いてるだけの工程なのに!

「これは…随分と良い香りだな。」
「!?」
「まるで天国にいるみてェだ。」

うっとりした様子で土方さんが目を閉じる。
…この顔、見覚えがあるぞ。どこだっけ?何してる時だっけ…?

「さすがは副長さん!わかりますか。」

パティシエが嬉しそうに手を叩いた。

「実は今年はスポンジにもマヨネーズを混ぜたんです。」

ああっ!そうだ、マヨネーズ!あの顔、新しいマヨネーズを開封後にパフパフして空気吸ってる時の顔だ…。

「スポンジにマヨネーズ…いいな。」
「あとスポンジとスポンジの間にもマヨネーズを塗ることにしました。」

それもうケーキじゃない!惣菜パン!惣菜パンだよ!

「最高じゃねーか!」

土方さんが子どものように目を輝かせる。

「さっき焼き上がったスポンジがあるんですが、良ければ一台お作りしましょうか!」
「なに!?」
「えェェ!?」
「…何だ紅涙、お前も期待してたのか。」
「いやっ、そうじゃなくて――」
「早雨さんにも分かるようになってきたんですね!」
「あー…そうじゃ……なくて……」
「だが悪ィだろ、忙しい時に。」
「構いませんよ!お世話になっている副長さんへの誕生日プレゼントです。」
「そうか…。」

あ~、あんな嬉しそうな顔して。

「じゃあすぐに完成させますんで!」

パティシエがマヨネーズを塗り広げていく。土方さんは嬉々としながら作業を見ていた。

「やべェ…楽しい。」

…まぁいっか。パティシエ自らのケーキプレゼントやら、それが去年以上に濃いマヨネーズケーキという点は予想外だけど、

「良かったですね、土方さん。」

ここで土方さんを祝える!三年目にしてようやく一番最初に私が祝える!

「お二人も大変ですねぇ。」

パティシエがマヨネーズを泡立てながら話し出す。…というか、どうやってあんなフワフワなマヨネーズホイップを作ってるんだろう。

「こんな朝早くからここまで逃げてこられたんでしょう?」
「ああ。」
「ろくに眠っていないのでは?」
「寝てません!」
「ハハハ、そうでしょうね。では奥の仮眠室で休んでおかれてはどうですか。」

え!?

「仮眠室があるんですか!?」
「ええ、そこに。私が普段休むだけの場所なので、何もない小さな部屋ですが。」
「…おい紅涙、」
「お借りしたいです!」

休める!完全に休める!!

「っど、どうぞどうぞ、使ってください。」
「やったァァァ!!」
「……はぁ…、すまねェな。」
「いえ、それじゃあケーキが完成したらお呼びします。それまでゆっくり休んでください。」
「ありがとうございます!」
「ったく。」
「行きますよ、土方さん!」

奥の部屋とやらに、私は小走りで向かった。
仮眠室は厨房と襖で隔てた畳張りの和室で、座布団が二枚と部屋の隅に小さな机があるだけ。けれど今の私には十分すぎるほど嬉しい環境だった。

「最っ高ですね!」

靴を脱ぎ、倒れ込むようにして仰向けに寝転ぶ。

「こら、やり過ぎだぞ。」
「ちょっとだけですって。土方さんも寝転んでみてくださいよ、すごく回復しますから!」

今後に備えて回復は重要だ!
私は寝転んだまま、うんと伸びをした。

「俺はケーキを見てる方が回復する。」
「そんなこと言わずに!ほら、ここ。」

畳の上をトントン叩く。土方さんは面倒くさそうにして、

「…ちょっとだけだからな。」

私の隣に寝転がった。寝転がると、

「あー……」

同じように伸びをする。

「どうです?」
「……眠っちまいそうだ。」
「でしょー。」
「寝るなよ、紅涙。」
「寝られませんよ、こんなすっぱい香りの中で。」
「あァ?」
「いえ何も。」

土方さんが深く息を吸って、深く息を吐いた。深呼吸なんて言葉が甘いほど深く。

「まるで天国だ…。」
「それさっきも聞きましたよ。」
「じゃあ桃源郷。まるで桃源郷だな。」

目を閉じて、幸せそうに息を吐く。

「サイコー…、……。」
「…え、土方さん?寝るなって言った本人が眠っ――」
「寝てねェよ。ちょっと目ェ閉じてるだけだ。」
「眠い人は大体そういうことを言うんです!私も寝ますよ!?」
「お前はダメだ。」
「なんでですか!起きてください!起きてくださいよ、土方さん!」
「揺らすな、起きてる。」
「もう寝る!絶対寝る!!」
「寝ない寝ない。」

そうこうしている間に、

「…。」
「…土方さん?」
「…すぅ…。」

やっぱり寝たァァ!!
いくら心配ない場所だからって、まさか本当に眠ってしまうとは…。

「…相当疲れてたんじゃないですか。」

土方さんもちゃんと人間で安心しました。

「モテる男は大変ですね。」

土方さんの顔を覗き込む。
こういうことを言ったら笑われそうだけど、まるで魔法にかけられて眠っているかのように、とても綺麗な寝顔をしていた。

「…、」

黒く艶のある前髪に触れる。サラりと流れた。
…そう言えば、以前にもこういうことがあった。
初めてフェーズ五を体験した日。
初めて私が土方さんの誕生日を祝った日。

「…土方さん、」

あの日のように声を掛けるけど、やっぱり小さく呻くだけで目を開かない。

「…ふふっ。」

今の私達は昔より進展した関係だ。…それなら、

「…。」

キス、してもいい…?

「…ちょっと欲求不満すぎるかな。」

まぁ否定はしないけど。
脳内で繰り広げられる自問自答に小さく笑い、

「…好きですよ、土方さん。」

そっと目を閉じ、土方さんの唇に近づいた……その時、

「…俺も。」

土方さんの唇が動いて、

「へ!?っ、んっ、」

驚いて身を引く前に、頭の後ろをがっちり掴まれた。

「んんっ、っ、っ」

息まで奪うようなキスを受けて、

「っは、ぁ、っ、」

ようやく離れた一瞬で呼吸する。

「なんっ、っで、っはぁ」

『なんで起きてるんですか!?』
そう言いたいのに、すぐに唇が塞がれる。胸を押して離れようとしたら、

「ふ、っんん、っ、ぁっ、ふ」

舌に翻弄された。
ああまずい!いつパティシエが来るか分からないのに!どうにかして離れないと!

「ん、ぁっ、…っ土方さん!」

合間をぬって呼び掛ける。ほぼ早口言葉だ。

「はぁっ…、…なんだよ。」

なんだよじゃありませんよ!

「何やってるんですか!ダメですよ、これ以上は!」
「お前が仕掛けてきたくせに。」
「それはっ…そうですけど。」

手を出したのは私が先だけど!

「こんなことしたいのは…山々ですけど、」
「だったらいいじゃねーか。」
「っあ、ちょっ、まだ話し終わってませんから!」

迫る唇を手で押し返す。

「……。」

あからさまに不満げな目で睨まれた。

「っ…そんな目をしてもダメです!」
「バレるのが心配なのか?」
「当たり前じゃないですか!」
「なら、」

土方さんはニヤり笑い、私の口を手で塞いだ。

「!?」
「バレたくないなら声を出すな。」

この人は…っ!
口元から手を引き剥がす。

「それ犯罪者のセリフ!」
「上等だ。…なにせ今日の俺は、真選組から紅涙を奪った悪人ってことになってるからな。」
「!」

土方さんが私の上に覆いかぶさった。

「ちょ、っ!?」
「ちったァ悪役らしく過ごすのもアリだろ。」
「な、何言って――」
「たまにはいいじゃねーか、こういうベタな展開も。なァ?」

今度は土方さんが私の顔を覗き込んできた。なんとも意地の悪い、妖艶な悪人面。そんな目で私を見つめたまま、腰元をするりと撫でてくる。

「まままっ、待ってくださいってば!よく考えましょう!」
「考えてるよ、お前のこと。」
「あ、嬉しっ…じゃなくて!」

するすると脇腹に触れて、思わず声が出そうになった。

「はっ、っ、」

咄嗟に自分の手で口を塞ぐ。

「いい顔してんな…紅涙。」
「っ…」
「安心しろ、俺達は今ここで世話になってる身。加えて世間体もある。だから…」

私の耳元で囁いて、チュッと首筋にキスを落とした。

「最後までシねェよ。」
「んんっ!」

ど…っどうしたんですか土方さん!私の妄想の中だけならまだしも、現実で土方さんがこんなことしちゃったら…!

もう誰も止める人がいなくなっちゃいますよォォッ!

ああっ絶対ダメ!ほんとにダメ!!
…なんだけど、

「あっ…、ッ、やっ…♡」

ダメじゃない自分もいるゥゥー!
だって大好きな土方さんが珍しく迫ってるわけだよ!?こんな貴重な悪役設定を楽しまない人がいる!?いない!いないよ!!くっ…、…もういいっ…、もうっ…どうとでもなれ!!

「…土方さんっ、」

覚悟を決めて土方さんの首に手を回した。そこへ、

「副長さーん!どのくらい食べられますかー?」

襖の向こうからパティシエの声が響く。

「「……。」」

なんというか、

「…どこまでもベタな展開ですね。」
「まァこんなもんだろ、タイミングなんて。」

そうして私は溜め息を吐いて起き上がり、土方さんは「ワンカットでいいっす」と返事をしたのだった。

にいどめ