運命1

生真面目な男

それは、今から少し前の江戸。
街の一角には、歌舞伎町とは別に『夢の地区』と呼ばれる遊郭街があった。そこにある揚屋『夢路屋』で、

「紅涙、お客様やよ。」
「はい。」

私は雇われている。
夢路屋は名を馳せるような人気店じゃないけれど、客の出入りは決して少なくない。とりわけ、一部の者が頻繁に利用していて……

「失礼いたします。」

私は着物を膝裏へ折りたたみ、襖に両手を添えた。スッと開いてサッと閉める。三つ指立てて頭を下げたら、

「紅涙でございます。」

今日の客に挨拶した。

「そこまでかしこまるな。毎度のことではないか。」
「…はい、桂さん。」

顔を上げ、微笑む。

この人は攘夷派の主要人物。
少し前に反幕府を掲げて大きな戦を起こし、それ以来ずっと幕府から追われている。江戸で隠れ住むものの、満足に仲間とも連絡を取り合えない日々。だから、

「今日はどのようなご用件で?」
「手紙を書きたくてな。」
「かしこまりました。」

私が、この夢路屋で彼らを取り次いでいる。
私は戦に巻き込まれ、助けてもらった身。その恩をお返しするためにここで仲介役として働かせてもらっている。今はそれが、私の生きる意味でもある。

「紙は何枚ご用意しましょう。」
「一枚でいい。」
「一枚…でよろしいんですか?」
「ああ。大した内容じゃないんでな。」

猪口を片手で持ち、口をつける。黒い長髪は真っ直ぐで、生真面目な桂さんによく似合っていた。

「今日はお前の顔を見に来たようなものだ。」
「ふふっ、」

彼は昼間にここへ来る。
目的はいつも『手紙』。他は何も求めない。手紙以外の用事も、私自身も、一度も求められたことがない。

「それでは、こちらを。」

部屋の隅にある漆黒の棚から紙と筆を取り、桂さんの傍に置いた。

「お前はいつまでも美しいな、紅涙。」
「…え?」
「美しい。」

唐突な褒め言葉に少し驚く。普段そんなことを口にしないから余計に。それでも、いやらしさを感じさせないのが桂さんの良いところ。

「褒めても何も出ませんよ?」

口元を着物で隠して笑うと、桂さんも目を伏せて笑う。

「それは残念だ。」

徳利を私に差し出した。注げという意味だと解釈して手を伸ばせば、サッと避けられる。

「今日は紅涙も飲め。」
「えっ、でも私は…」

飲めない、ではなく飲まない。伝書の務めをしっかり果たせるよう、極力飲まないようにしている。けれど、

「俺が文を書いてる間は暇だろう?」

桂さんがそう言ってくれるのなら、

「…ふふ、そうですね。ではお言葉に甘えて。」

猪口を手に取った。トクトクと酒が注がれていく。

「今日はどなたへ文を渡せば?」
「銀時に頼む。」
「そうですか、では明日に届けておきます。」
「外へ出るのか?」
「まさか。あの人はきっと、明日いらっしゃいますから。」

注ぎ終わった猪口に「いただきます」と口を付けた。桂さんが不思議そうな顔をして首を傾げる。

「どうして銀時が明日に来ると分かるんだ?」
「いつも三日置きにいらっしゃるので。」
「三日おき?…随分な頻度だな。」
「おそらく桂さんのような攘夷活動はしてませんよ。」
「であろうな…。はぁぁ、全く。アイツは昔から腕が立つのに、怠け癖が酷い。」

呆れた様子で溜め息を吐き、桂さんは筆を走らせた。
静まり返った部屋に手紙を書く音が響く。内容は見ぬよう顔を背けているが、紙の上を筆が滑る音は心地良かった。

「紅涙、」
「はい?」

時折、筆を走らせながらも私に声を掛けてくれる。こうした気遣いも、桂さんならでは。

「幕府の連中は来てないか?」
「ええ、最近はめっきり。少し前でしたら、お隣の揚屋で揉め事を起こしたとか聞きましたけれど。」
「そうか。」

遊郭街は正式に認められていない区画。言わばグレーゾーン。いくら幕府関係者がお忍びで遊びに来る揚屋があっても、その逆鱗に触れてしまえば手の平を返したように潰される。

「紅涙も気を付けろよ。」
「はい。」

ましてや夢路屋は反幕府の攘夷志士とも繋がりのある揚屋。見つかれば、一溜まりもない。

「…けれど私は、一見さんをお断りしていますから。」
「そうだったな、」

遊女であって、

「会うと言っても俺達くらいか。」

私は遊女でない。
舞や作法を習っていても、店先で客を呼び込むことはないし、他の遊女の助太刀に入ることもない。そもそも遊女として揚屋に名前すら挙がっていないのだ。

「このような形で住まわせてもらって、楼主や女将さん達には感謝してもしきれません。」
「紅涙が案ずることではない。楼主は元々我らの同志。力になれるならと喜んで提供してくれているんだ。」
「…ありがたいです。」

この環境のおかげで、私を指名する者は攘夷関係者、もしくは繋がりのある者だけという判断が成せるようになっている。

「だが気を付けておくに越したことはないぞ?何があるか分からんからな。」
「そうですね、気を付けておきます。」
「…よし、出来た。」

桂さんは文を折り、それを私に差し出した。

「では頼んだ、紅涙。」
「かしこまりました。」
「…さてと。」

立ち上がる。

「もうお帰りに?」
「ああ。今日も美味い酒だった。また来る。」
「お待ちしております。」

正座をして、頭を下げた。

「銀時に伝えておいてくれ。『借金取りにまで追われてくれるなよ』と。」
「ふふっ、承知いたしました。」
「ではな。」

優しく微笑み、部屋を後にした。

この人はいつもそう。
私に感情をぶつけない。
いつも優しくて、いつも穏やか。けれど国のため、仲間のためとあらば煮えたぎるように熱くなる。

まるで大きな川のよう。
それが、桂小太郎という人。
※楼主…揚屋の管理主人
※禿…遊女を世話する娘

にいどめ