涙の理由+片づけ
―――スパンッ!
「紅涙!」
「!?…っぎ、銀ちゃん…!?」
朝の早くから、銀ちゃんが私の部屋に飛び込んできた。
自室に店の人以外が入って来たのは初めてで、私は驚きもさることながら、寝ぼけ眼で布団に座る。
「ど、どうしたの?こんなに朝早く…。」
「悪ィ、…っ、どうしても、急ぎで。」
息を切らし、額の汗を拭う。
「あァァ~…久しぶりに全力疾走したわ。」
布団の傍に腰を下ろすと、胸元の服を引っ張って風を通した。
「大丈夫?お茶、入れてこようか。」
「いや、いい。」
どうしたんだろう…。……でも、
「久しぶりだね、銀ちゃん。」
会えて嬉しい。
「元気そうで安心したよ。」
「お前もな。変わりねェか?」
「うん。」
頷いて、小さく笑う。いつもの銀ちゃんだ。
「…あ、そうだ銀ちゃん。」
「ん?」
「預かり物があるの。」
私は机の上に置いてあった薄い封筒を手に取った。
「これ、桂さんから頼まれた手紙。」
「ああ…話は聞いてる。」
「?」
「どうものんびり様子見してる場合じゃなくなったらしくてな、直接会いに来やがった。」
手紙を開け、ざっと目を通して頷いた。
「…紅涙、」
真剣な顔で私を見る。
「遊女はしばらく休みだ。」
「…え?」
「今日から誰が来ても会わないでくれ。」
「……何かあったの?」
「幕府がここに目をつけたらしい。」
「!」
「詳細はまだ分からねェ。だが幕府の犬…真選組のヤツらが動いてるのは間違いなさそうだ。」
「しん…せんぐみ…?」
「ああ。」
懐に手をやり、
「何枚か、そいつらの写真を持ってきた。」
銀ちゃんが布団の上に写真を置いた。一枚を私の前に出す。
「まずこれが真選組局長の近藤。」
険しい顔つきの男性が写っている。アゴに髭をたくわえ、体格も良さそう。服装は黒っぽい洋服で、首にスカーフのようなものを巻いていた。
「次にコイツは潜入を得意とする山崎。おそらく夢路屋に入り込むならコイツだ。」
「入り込む…?」
「客としてか、店の人間として潜入してくる。」
「そんなことを…」
写真を見た。近藤という人のような髭はなく、とらえどころのない顔をしている。服も先程よりシンプルで、スカーフも巻いていない。
「見たことねェか?」
「うん…、ないと思う。」
「そうか。じゃあ次。」
「…何枚あるの?」
「あと二枚。」
新たに一枚の写真を私の前に出した。
「コイツは沖田。まだガキだが、一番食えねェ野郎だと言われてる。」
目が大きくて、黄色の髪が印象的。確かに他の人より幼そうに見えるけれど、
「…銀ちゃん、」
「ん?」
「服が違うのは、何か意味があるの?」
この人はスカーフを巻いている。
「隊長クラスは違うみてェだな。」
「じゃあ二枚目の写真の人が隊長クラス…?」
「いやこっち。このスカーフ巻いてるヤツら。」
えっ…
「それじゃあこの沖田っていう人も…隊長クラスなの?」
「ああ。コイツが真選組の中で一番腕が立つってウワサだ。」
華奢な身体つきに見えるのに…。
「ガキだから店には来れねェだろうが、もし会っちまった時は絶対に誰か呼べ。何されるか分かんねェから。」
何される分からないって…
「…警察なのに?」
「なのに。コイツは要注意人物だ。そもそも武装警察なんて荒っぽい名前ついてる連中なんだよ、コイツらは。」
「…怖いんだね、江戸の街って。」
「まァ普通に生きてりゃ普通だろうがな。」
銀ちゃんが困ったように笑う。
…そうだね、私達が普通じゃなかったんだ。
「で、最後がコイツ。」
写真を出した。
「真選組のナンバー2であり、鬼の副長とも呼ばれる土方だ。」
私は写真を見て、
「……、」
凍りつく。
「頭がキレる野郎らしくてな、『真選組の頭脳』なんて異名も持ってやがる。」
黒い髪。鋭い目。煙草を咥えるこの姿。
「…、」
似ている。
…ううん、どこからどう見ても…十四郎さんだ。違うのは服装くらい。写真の中の人は、他の人達と同じような黒い洋服を着て、スカーフを巻いている。
「……銀ちゃん、」
「なんだ?」
「…この人の…下の名前は?」
「下の名前?えー…っと、ああ思い出した。十四郎だ。土方十四郎。」
「!!」
『俺の名前、十四郎っていうんだ』
そん、な…、
「っ、…」
「…紅涙?」
そんな……っ、
「どうした?」
あなたは…、あなたは潜入捜査に来ていたんですか?
だから特に用もなく、他の遊女に目もくれず…私なんかを…選び続けていたんですか?
「コイツのこと知ってんのか?」
「…、」
「紅涙?」
「……知らない。」
言えない。言いたくない。…言いづらい。
ここへ来ていたなんて…とても言えない。それに十四郎さんのことを教えたら……銀ちゃん達はきっと、十四郎さんを…、……。
「…、」
私…、……誰を護りたいの…?
「…何か知ってんのか。」
「……知らない。…私、こんな人なんて……知らない。」
どうして気付かなかったんだろう。
どうして怪しまなかったんだろう。
どうして私…、…どうして…っ…、…、
「っ、」
「おっおい…どうした?」
「ごめ…っ…、目に…ゴミが入っちゃったみたいで。」
えへへと笑い、目を拭う。銀ちゃんは傍にあったティッシュを差し出してくれた。
「…大丈夫か?」
「うん、ありがとう。…ごめんね。話、続けて?」
その後、銀ちゃんは色々教えてくれた。
真選組は江戸を拠点とする警察組織。
特に攘夷派を厳しく取り締まっている人達だそうだ。
そんな真選組でも、異質な遊郭街は手を出せない。…にも関わらず、今回こんな風に攻め込まれて驚いてる…そう話した。
「怪しんだからには、じきに本腰入れて動き出すはずだ。だから先にお前を逃がす段取りになった。」
「えっ…」
先に…逃がす?
「私だけ逃げるの?」
「あとで俺達も行く。」
「あとって……?」
「すぐだよ、すぐ。アイツらが動き出す前に、ちょこっと仕掛けたら行くから。」
「仕掛けたらって…何する気?」
「街で暴れてくる。そうすりゃここなんざ構ってる暇なくなるだろうからな。紅涙は俺達が合流するまでの間、この場所で身を潜めて待っててくれ。」
銀ちゃんが紙切れを差し出した。そこには手書きの地図があり、ここから少し離れた遊郭街の外れに丸を付けていた。
「江戸に出ればアイツらのテリトリーになる。俺達が揃うまでは遊郭街に身を潜めるのが安牌だ。」
「……銀ちゃん、」
「下手に動くなよ?夕方に東の空で笛を鳴らす。狼煙みてェなもんだ。お前はそれが聞こえてから店を出ろ。」
「銀ちゃん、」
「もし日が変わっても俺達が来なかった場合は――」
「やだよ、銀ちゃん。」
「…、」
「一人なんて…嫌。」
皆といたい。また一人になるなんて…考えたくもない。
「…大丈夫だって。全部うまくいくから。」
「っ、じゃあ私も銀ちゃん達と行く。」
「無茶言うな。」
「でもっ…、……。」
私が非力なのは分かってる。邪魔になって、足手まといになるのも分かってる。…けれど、
「一緒にいたい…っ、」
一人で生き延びるくらいなら、ここで終えてしまいたい。それくらい…嫌なの。
「一人にしないで…っ!」
「紅涙…、」
「お願い…っ、銀ちゃん…。」
「……、」
「銀ちゃんっ!」
「…あァー…ったく、わァったよ。」
頭をガシガシと掻き、
「じゃあ夕方、迎えに来る。」
「っ、ほんと!?」
「ああ。…先に逃げてる方が安全だっつーのによォ。」
「行く。絶対一緒に行く!」
「フッ、わァったよ。じゃあ、ちょっくら策を練り直してくるから、お前は身支度して待ってろ。」
「うん!」
「着物は軽い物にしとけよ?持ち物は金だけだ。部屋ん中は、しばらく戻れねェからそのつもりでな。」
「あっ…」
…そっか。そう、だよね。
「なんだ?やめるのか?」
「やめない。でも…またここには戻ってこれるんだよね?」
「ああ。いつかな。」
『いつか』
「…、」
「そう深刻に考えんなよ。ちょっとした旅行だと思えばいい。もしくは、」
私の前に屈んで、
「身請けされて出ていく予行練習だと思うのもいいかもな。」
薄く笑って、私の頭に手を置いた。
「なァ、紅涙。今度帰ってきた時、皆で飲もうぜ。で俺、その時に宣言するから。お前を身請けするって。」
『俺に…身請けさせてくれ』
「っ…、」
あの人は…嘘だった。
それだけじゃない。私と過した時間全てが、嘘だった。
「俺さ、事が落ち着いたら万事屋やろうと思ってんだ。」
「…万事屋?」
「おう。そうなりゃ金なんてあっという間に貯まるぞ?楽しみにしてろ。」
「銀ちゃん…、」
銀ちゃんは、嘘をつかない。いつだって…真っ直ぐに私を想ってくれている。
「…ありがとう、銀ちゃん。」
「礼なら身請けした後にしてくれ。それまでストック。」
「ふふっ…わかった。」
銀ちゃんはずっと傍にいてくれる。
なのに、私の胸は今もなお…あの人を想って締めつけている。
「じゃあ夕方に迎えに来るから。」
「うん、気を付けて。」
「…、」
「…銀ちゃん?」
黙り見る視線に首を傾げる。すると銀ちゃんが手を伸ばし、私を抱き締めた。
「お前だけは…絶対護ってみせる。」
「銀ちゃん…、」
「絶対だ。」
身体を離し、力強い眼差しが私を射抜いた。
「っ…、……うん、待ってる。」
銀ちゃんが立ち去ると、部屋に静寂が戻る。
スズメの鳴き声が聞こえ、遠くで食器の音がした。
特別じゃない朝。こんな朝が、まさか今日で最後になるなんて。
「…また、戻ってこられるよね。」
ここは私の家も同じ。
かつて攘夷派の同志だった楼主さまの縁で、女将さんと番頭さんに支えてもらいながら、銀ちゃん達を迎えていた家。そして…
「…、」
十四郎さんも来てくれていた場所。
…もう、二度と会うことはないだろうけど。
いつか戻ってきたい。
心からそう思っていても、どうなるかは分からない。
「…片付けておこうかな。」
迎えが来る夕刻までの間、私は部屋を片付けることにした。
「どないしたん?」
女将さんを呼び、頭を下げる。
「ご迷惑をおかけします。もし十四郎さんが来たら、私に代わってこれまでの前払い金をお返しいただけないでしょうか。」
封筒を差し出した。
「あら、返してまうの?」
「はい。」
元より前払い金は形式上のもの。
初めの一ヶ月は私の部屋で保管し、信用できる人だと感じたら店に預けていた。預けたお金は夢路屋の収入とせず、攘夷活動にも使わない。いずれ本人へ返す、ただ信用を積み重ねるだけの物。もちろん銀ちゃん達も例外じゃなく、今も信用を積み重ねている。…でも、
「…十四郎さんは、充分に信用できるお方なので。」
十四郎さんには返す。
「信用してる相手やから言うて返す人なんて初めてやないの。あの子らにも返してないのに…」
「十四郎さんは……特別ですから。」
弱く笑うと、女将さんは嬉しそうに頷く。
…私が想像していた通りに。
「せやったなぁ。アンタのその気持ち、大事にしぃや。…わかった。そしたらこれは、うちの手から返しときます。」
「お願いします。」
「でも次に旦那はんが来はった時、アンタの手から返したらええんちゃうの?……って、ああアレと繋がってるんやな。」
封筒を袖口にしまいながら、女将さんが溜め息を吐いた。
「なんやよう分からんけど、さっき銀時に『紅涙をしばらく休ませる』て言われたわ。」
「はい…すみません。」
「体調悪いんか?」
「いえ…そうじゃないんですけど……。」
言葉を濁す。女将さんは察してくれたようで、それ以上のことは聞かなかった。
「まぁアンタはうちの遊女であって遊女やない。好きにしたらええ。」
「すみません…、…ありがとうございます。」
「せやけどあの子、『店から連れ出す』とも言うてたんよ。…もしかして今回のお金の話と関係あるんか?」
「え?」
「銀時が旦那はんにヤキモチやいて、縁切りさせたんちゃうやろな?」
「っち、違います!それとは全く…関係なく。」
「それやったらええけど…」
「お手数おかけします。」
「構へんよ。うちらは『体調悪いです』で通すよってに、気にしぃな。あの子らも含めて何考えてるんか分からんけど、無茶だけはせんようにな。」
「……はい、ありがとうございます。」
私は三つ指立てて頭を下げ、女将さんを送り出した。
本当は、あのお金を私の手から返したかった。
いつか。遠い未来でも、近い将来でもいつでもいい。
十四郎さんの目を見て、『ありがとうございました』と微笑み、返したかった。この先もずっと…十四郎さんに会いたかった。
「……、」
あのお金を返せば、私と十四郎さんを繋ぐものは何もない。形あるプレゼントを貰ったこともなければ、その身を縛る契約もないのだから。…あるのは、今となっては信ぴょう性のない口約束だけ。
「…。」
遊女と客なら当たり前の話。
ましてや相手は私を探りに来ていただけの人。……なのに、
「……、…十四郎さん。」