この着物、その煙草+さようなら
山崎さんから借りていた着物を脱ぎ、ここへ来た時の服を身につける。
返してもらった服はピシッとシワなく折りたたまれていて、女中さんにもお礼を伝えてもらうよう山崎さんにお願いした。
「…。」
帯を整え、鏡を見る。
鏡の中に、
『…身請けさせてくれ』
過去を見た。
『一緒にいられる時間が減っちまったなら、これから二人で取り戻しゃいい。そうだろ?』
思えば本当に十四郎さんは…
『それでも俺は紅涙を護りたい』
『俺が紅涙の日常ごと護ってやるよ』
『少なくとも俺にとってのお前は、充分すぎるほどの価値がある』
十四郎さんは、ずっと……
『これだけ言っても護らせてくれねェのか?』
私を、想ってくれていた。
ここへ連行した後も変わらず。
自分の言葉が嘘じゃないことを、ずっと私に伝えてくれていた。…あの時でさえ、
『行け、紅涙』
『やれ』
私を…想って……。
「っ…、」
言いようのない気持ちが込み上げ、胸元を掴む。そこへ、
―――コンコン…
『着替え終わりました?』
扉の向こうから山崎さんの声が聞こえた。
私が開けると、一瞬驚いた顔をした後にやんわり微笑む。
「行きましょうか。」
「…はい。」
「山崎退、参りました。」
『入れ』
山崎さんが障子を開ける。そこには、
「おはよう、紅涙さん。」
部屋の主である近藤さんと、十四郎さんが座っていた。
「…。」
「…、」
久しぶりに目が合うと、思わず心がひるむ。私はそれを、
「…おはようございます。」
頭を下げて、やり過ごした。
そう言えば、十四郎さんの腕からギプスは取れている。良くなったらしい。…よかった。
「座ってくれ。」
手で示され、二人の向かいに腰を下ろした。
山崎さんは部屋の障子を閉めた後、出入口付近に腰を下ろす。
「既に紅涙さんも承知の通り、今日キミを釈放する運びとなった。」
「…はい。」
「理由は二つだ。情けない話ではあるが、我々が今後も、キミが意図的に攘夷志士を仲介していた証拠を上げられそうにないことと、被害者となってしまったこと。」
「被害者…?」
「ああ。」
私が…被害者?
「何の…」
「高杉の件だ。」
十四郎さんが口を開く。
煙草を取り出し、火をつけた。慣れた仕草だけど、その手はまだ左手だ。
「あ…あの件は…何もなかったとお伝えしたはずです。私は高杉とは何も」
「黙れ。」
「っ…」
「…俺達はアイツが何をしたかは定かにしない。だがお前らが接点を持ったことは事実。現場がそう物語ってる。」
「で、でも…それで私を被害者だとするのは――」
「紅涙さん、それ以上はやめておいてくれないか?」
近藤さんは困った様子で眉を寄せ、笑った。
「すまないが、それ以上の主張は虚偽の発言と捉えねばならん。まだ屯所にいたいのなら話は別だが、ここを出て行きたいのなら話さないでおいてくれ。…トシのためにも。」
「十四郎さんの…?」
「ゴホンゴホン。…近藤さん。」
咳払いをした十四郎さんが近藤さんを見る。近藤さんは頭を掻いて謝罪した。
「すまんな、話が逸れてしまった。とにかく紅涙さんの疑いが曇りなく晴れたと言うわけではないが、このまま留置し続けるわけにはいかんという話だ。長引かせれば上もうるさい。よって、釈放する運びとなった。」
「……わかりました。」
私は畳に手をつき、少し後ろへ身を下げる。改めて畳に三つ指を立てると、
「これまでありがとうございました。」
頭を下げた。
「夢路屋に戻るのかい?」
「…はい、」
顔を上げる。
「そのつもりです。」
「そうか。では今度は客として寄せてもらうよ。な?トシ。」
「…。」
近藤さんの言葉に、十四郎さんは返事をしなかった。ただ静かに煙草の灰を灰皿へ落とす。…もう興味はなくなってしまったらしい。
「…どうぞ今後もご贔屓に。」
私は再び頭を下げた。
いつかに十四郎さんが嘆いた、遊女の振る舞いで。
十四郎さんはどんな顔で私を見ているのか、
「…。」
「…。」
心の隅で気になったけど、顔までは見なかった。
「トシ、門まで送ってくれ。」
「わかった。」
「いえ…結構です。一人で――」
「すまんな、紅涙さん。そういうわけにもいかんのだ。釈放と言っても、ここを出るまでは俺達の管理下。見張りと言ってはしつこいが…」
「もう少しの辛抱だ。…我慢してくれ。」
十四郎さんの口振りに、胸が痛む。
そういうつもりで言ったんじゃない。
決して十四郎さんと一緒にいたくないというわけでは……
「…、」
今すぐ否定したい想いと、そう間違った伝わり方でもなかったかもしれないという想いが浮かんで、口を閉じる。
「行くぞ。」
十四郎さんはまだ吸い終えていない煙草を灰皿に押し付け、立ち上がった。私も後に続く。
「紅涙さん、お元気で。」
部屋の出入口で山崎さんが声をかけてくれた。
私はそれに頭を下げ、
「ひとつ、山崎さんにお願いしたいことがあるんですが…。」
「え?」
言伝を頼む。
「沖田さんにお伝えください。『仲良くしてくださってありがとうございました』って。」
「!…わかりました、しっかり伝えておきます!」
私はもう一度頭を下げ、今度こそ局長室を後にした。
十四郎さんと門まで道を歩く。
互いに話すことはなく、ただ黙って歩き続けた。
長かったような、短かかったような。そんな時間を思い過ごしながら。
「…ここまでだ。」
門の前で、十四郎さんが振り返った。
「…、」
ここを出れば、私には『自由』が待っている。
ここを出れば、十四郎さんに会うことはなくなる。
もう……二度と。
「お世話に…なりました。」
門を見つめながら話すと、少しだけ声が震えた。
「…紅涙が、」
「?」
十四郎さんを見る。偶然なのか、十四郎さんはサッと目をそらし、煙草に火をつけた。
「紅涙が早く…夢路屋の着物を脱げるよう祈ってる。」
「…。」
その言葉の意味に、胸が詰まった。
聞き返さなくても分かる。身請けの話だ。
でも以前とは真逆で、『自分が身請けすることはないけれど』という意味を含んでいる。
「…、」
いっそ、
『早くどこかの誰かに身請けしてもらえ』
わかりやすく、そう言ってくれて良かったのに。その方が真っ直ぐ伝わって…悲しめたのに。
「……十四郎さん、」
あなたは、最後まで優しい。
「本当に…ありがとうございました。」
何度目かの礼を言い、目線を上げる。
「…、」
十四郎さんと目が合った。
「…生きろよ。」
「え…」
「お前が言うように、ここを出ても…これまで通りとはいかないかもしれねェ。けど、その目に映る世界が全てじゃねェんだからな。お前の見えないとこで、お前の存在に救われるヤツがいるんだからな。」
……、
「……どうして…」
どうして、そんな話を…私に?
私の考えは誰にも話していない。なのにまるで…私の先の行動を見越したかのように投げかけるその言葉は、一体どこから……
「何かを成さなくとも、誰の目に触れなくとも、そこで生きていることに意味はあるんだ。」
「十四郎さん…」
「だから、紅涙。」
―――ジャリッ…
地を蹴る音がして、
「っ…!」
視界が十四郎さんでいっぱいになった。
鼻に届く煙草の香り。
間近に見える伏せられた長いまつ毛。
唇に灯る温かさ。
口づけに気付くまで瞬きを三度ほどした直後、そっと熱は離れた。
「生きてくれ。」
十四郎さんが私を真っ直ぐに見て告げる。
「それが出来なくなったら、ここに来い。俺を使え。」
「十四郎さん…、」
「お前には俺がいる。」
トンッと小さく肩を押される。二歩ほど後ろへ下がり、足下を見た。私の足が、門の敷居をまたいでいた。
「…忘れるなよ。」
屯所の中にいる十四郎さんと、屯所の外に出た私。
「じゃあ……」
もう近付かない二人の距離が、
「……さよならだ、紅涙。」
私達の違いを知らせていた。
「っ…、…、」
どうして、
…どうして。
「…さようなら…っ…十四郎さん…、」
どうしてこの人を好きになってしまったんだろう。
どうして、あなたに出逢ってしまったんだろう。
いつかにも感じた後悔が、
「…元気でな。」
再び巡ってくる。
十四郎さんは背を向け、歩き出した。
黒い髪を風になびかせ、左手に持つ煙草の香りが薄く…遠くなっていく。少しずつ、確実に。
「…、」
さようなら…
「…っ」
十四郎さん。
「っ、……。」
私は屯所に背を向け、歩き出した。