運命39

鮮やかな記憶を

三年なんて月日が経っても、大して変わりゃしない。
…いや、違う。
変わらないんじゃなく、これが俺の生活なんだ。

あの日からあれから三年が経ち、俺の生活は滞りなくこれまで通りの日常に戻っていた。

…とは言っても、紅涙を送り出してからしばらくは異常だった。

遊郭の大門前を通ろうものなら……
『…今頃どうしてんだろうな』
そんなことを考えていたし、甘味屋の前を通ろうものなら……
『これ、うまそうに食ってたよな』

紅涙との時間を思い出していた。
一度や二度じゃない。しょっちゅうだ。
屯所にいても、そこらかしこに紅涙が見えるもんだから、しばらく間の抜けた日々だったのを覚えてる。

「……はァ。」

だが人間とは都合のいいもので、
どんな記憶もいつしか少しずつ風化し、抱えきれなくなりそうな想いも次第に薄れゆく。

俺も例外じゃなく、月日と共に、気付けば白紙に戻っていた。

忘れたわけじゃない。
溶けて消えた感覚に近い。
俺の身体の一部となって、何も感じなくなったんだ。
そうして振り出しに戻った心で、俺は今日も書類に向き合っている。

「……。」

この日々を退屈だなんて思ったことはなかったのに、
『十四郎さん』

退屈で…仕方ない。

―――スパンッ!
「トシ!」
「!?」

突然開いた障子に心臓が跳ねた。

「ビックリするじゃねーか、近藤さん。なんだよ、いきなり…」
「何度か呼んだぞ?返事はなかったがな!」

中に入ってきた近藤さんが、部屋の中央であぐらをかいた。そしてパチンッと膝を打つ。

「なァトシ!」

いちいち声デケェな…。

「…なんだよ。」
「今夜、予定を空けておいてくれ!」
「あァ?…何かあるのか。」
「宴会だ!」
「……宴会ィ?」
「ああ。招待されたからな、出席せねばならん。」
「何の宴会だ。」
「とっつァんの犬の誕生日だって。」
「犬ゥゥ~!?…そんなもん欠席でいいだろ。」
「何言ってんだ!犬も家族の一員だぞ!?俺達と同じ命あるもの、すなわち誕生日を祝われるべき存在だ!」

テンション高ェな…。

「…わァったよ。」
「よし!」
「……はァ~…、」

俺は何も、犬の誕生日を責めてるわけじゃない。それを理由にグダグダ呑む時間が好きじゃねェんだ。…とっつァんだから余計に。

「宴会はいつもの店か?」
「いや、今回はゆ……、…、…。」
「ゆ?」
「……ゆ、え、えーっと……、…言えぬ!」
「あァ?」

近藤さんは腕を組み、フンと顔をそむけた。…なんだそれ。

「なんで言えねェんだよ。」
「べっ、べつに隠しるわけじゃねーし!」

めちゃくちゃ隠してるじゃねーか…。
どういうことだ?

「…近藤さん。」
「…。」
「近藤さん。」
「ぅっ…、……っだあァッ、やっぱ無理!」
「何が。」
「宴会は今日の二十時からだ!」

今日の二十時って…

「今日ォォ~!?急過ぎだろ!!」
「まァそういう人だからな、とっつァんは。」
「…。」

それは確かに。
しかし今日かよ…。なんつーか…今夜のうちに済ませておきたい仕事とかあったんだが………仕方ねェ。

「で?宴会場所は。」
「参加するのは俺とトシだけだ!」
「…いや、俺が聞いてるのは場所…って…、…?」

なに?宴会に出るのが俺と近藤さんだけ?

「他に本部から来るのか?」
「そういう話は聞いてないな。」

つまり…とっつァんと俺達だけの宴会!?

「そりゃただの呑み会じゃねーか!とっつァんが酒呑みてェだけだろ!」
「違う!とっつァんのワンちゃんの誕生日!ワンちゃんが主役の宴会!!」
「どうだかな…。」

面倒くささに磨きがかかった。

「まァそういうことだから!」

パシッと膝を打ち、立ち上がる。

「二十時に間に合うよう、屯所の前で待っててくれ!」
「場所を言ってくれたら、時間までに向かっておく。」
「いや!二人で一緒に行くぞ!」
「なんで…」
「二十時開始だから、十五分前に屯所前集合な!」
「…。」

「じゃ!」と片手を上げ、近藤さんは足早に部屋を出て行った。

「…なんで場所を言わねェんだよ。」

結局最後まで宴会場所を言わなかった。
決まってねェからか?
…いや、決まってなかったら『決まってない』って言うはずだ。なら、俺に言えねェ場所ってことか?俺が…嫌いな場所……?

「…禁煙室?」

ねェな。とっつァんも吸うのに。

「……まさか…、…、」

まさか…禁煙したのか!?
奥さんから迫られて、吸わない体質になっちまったんじゃねーよな!?それで見せつけるために禁煙室で宴会するとか言ってんじゃねェよなァァ!?

「……ありえる。」

そいつはキツい。
俺には煙草くらいしか救いがねェってのに。

こうなったら頻繁に外へ出て煙草を吸うしかねェ。もしくは窓際に陣取って、時が過ぎるのを待つ。…ああそうしよう。どうせとっつァんは近藤さんと騒いでるだろうし、喫煙禁煙に関わらず、一人静かにどうにか時間をやり過ごして……

「はあァァ~……、」

しかしキツいな…。

「って、トシ!五分遅刻!!」
「悪い。考え事してて遅くなった。」

二十時の十分前に外へ出ると、近藤さんは絵に描いたようにデカい骨を担いで待っていた。

「…何だそれ。」
「ワンちゃんへのプレゼントに決まってんだろ?」

…犬のアゴ、はずれちまうだろうな。

「で、これからどこに行くんだ?」
「俺に任せろ!」
「…。」

やっぱ言わねェか…。

「よし、行くぞ!」

近藤さんが歩き出す。
俺は溜め息を吐き、仕方なしに後に続いた。

大通りへ出て、何度か角を曲がって行く。街を下るその道順に、言い得ぬ気持ちがよみがえってきた。

「…、」

それは久しい、

「……、」

複雑な気持ち。

「…近藤さん。」

遊郭街とを隔てる朱門の前で、足を止めた。

「どうした?」
「……どこへ行こうとしてる?」
「揚屋だ。」
「どこの?」
「…、」
「…。」

…そういうことか。

「帰る。」
「え!?っと、トシ!!」

慌てて俺の腕を掴んできた。
そのせいで近藤さんが担いでいるデカい骨がグラつき、思いっきり俺の頭にぶつかる。

「ゴフッ…!」
「あああっスマン!」
「…。」

なんだこれ…、踏んだり蹴ったりじゃねーか。

「……はァァァ…。」

煙草を取り出し、火をつける。

「…近藤さん、傷をえぐって楽しいか?」
「傷って…、」
「俺が嫌がるのを分かってて連れて来たんだろ?」
「…だがもう三年も前の話だ。」

そうだよ、三年だ。
はたから見れば過去の話だが、生憎、時間じゃねェんだよ。
俺は…あの日から何も変わっちゃいねェんだよ。

「きっともうここに彼女はいないさ。」
「!…、」

そう…かもしれない。
なぜかこれまで『いない』なんて考えもしなかったが…いなくてもおかしくねェよな。

「風の噂では、どこかの揚屋で天神になったとか聞いぞ?そこまで上り詰めたなら、なおのこと、もういないさ。」
「……そうだな。」
「あまり深刻に考えるなよ、トシ。気楽に行こう!」
「…よく言うぜ。もしアンタが俺の立場なら、同じこと言ってねーよ。」
「だな!言わん言わん!」

ガハハと笑い、近藤さんが朱門をくぐった。

「……ったく。」

この人は昔からこうだ。
作戦高いわけでもないし、交渉上手というわけでもないのに、なんだかんだで従わせちまう。

「厄介な野郎だよ、全く。」
「ん~?何か言ったか、トシ。」
「いや、何にも。」

俺も、三年ぶりに朱門をくぐった。
…にしても、よりにもよってなんで夢路屋なんだよ。とっつァんなら他に馴染みの揚屋があるだろ?つーか、犬の誕生日を揚屋でする意図も分かんねェし。

「邪魔するぞー。」

そうこうしている間に、近藤さんが夢路屋の敷居をまたぐ。

「今夜の貸し切りに呼ばれた近藤でーす。」

貸し切り…?
貸し切ってんのか、とっつァん。

「へい!らっしゃ……っあ!」

番頭が俺を見て目を丸くした。

「だっ旦那…!」
「…久しいな。世話になる。」
「ちょっと待って、俺は?俺には驚かねェのかな、番頭さん!あの時俺も一緒に来てましたけど!?」
「す、すみません、近藤の旦那。生憎、そっちの旦那のことしか覚えてなくて…」
「ちぇっ…。まァいいけどさ、」

近藤さんが番頭に手招きする。コソッと何か耳打ちすると、

「よろしく頼むよ。」

番頭の肩を叩いた。
…どうせ、三年前のことに触れるなとか言ったんだろ。

「ほらトシ、行くぞー!」
「…ああ。」
「お待ちください、旦那。」

呼び止めた番頭が、俺に灰皿を差し向けてくる。

「煙草、お預かりします。」
「…。」

…マジかよ。この店、禁煙になったのか?
俺は番頭を睨みつけ、手に持っていた煙草を灰皿へ押し付けた。

「お連れの方は広間でお待ちですわ。階段上がって左の部屋になります。」
「了解~。」
「…、」

広間は知らない部屋だ。
近藤さんの後に続き、俺も階段を上って行く。

「……、」

どこを見ても、どこを切り取っても、三年前の記憶が傍にあった。あまりに鮮やかで、視界にすら入り混じる。

「…キツいな。」
「どうした?」
「……なんでもない。」

頭が混乱してくる。
ようやく薄れた想いが、また前面に浮き出てきた気分だ。

「…はぁ……、」

控えめに溜め息を吐いた。

落ち着け、俺。気を紛らわせろ。
紅涙への想いがどうにかなるわけじゃない。
紅涙はもうここにいないかもしれねェんだ。夢路屋を辞めたか、誰かに……身請けされたかで。

「…、」

……紅涙…、…お前は……いないのか?ここに。もう…どこかの男と一緒に……、……、…。

「……近藤さん、」
「ん?」
「悪ィけど俺…、…やっぱり帰―――」

「おお~!遅ェじゃねーかお前らァ!」

「!」
「とっつァん!」

開け放たれた襖から、とっつァんが俺達を見つけた。
酒を運び入れる禿が出入りしているせいで、帰り損ねた。

「とっつァん、富豪みたいじゃん!やっぱ貸し切りとなると圧巻だな!」

とっつァんは既に酔っていて、自分の周りに女を集めていた。おそらく店の遊女全員。…だがそこに紅涙の姿はない。

「バカヤロ~、近藤ォォ。俺だって金なら持ってんだよォ。」
「だな!あ、これプー助にプレゼント。プー助、誕生日おめでとう!」
「気が利くじゃねーか。良かったなァ、プー助。」

とっつァんの隣で大人しく座る犬の前に、その体の数十倍デカい骨が置かれた。…大丈夫か?

「それじゃあテメェら、とっととグラス持ちやがれィ。」

用意されていた席につき、グラスを手に取る。

「え~、プー助の健康と長生きを祈りましてェ~……」
「「カンパーイ」!」

近藤さんは嬉々としてグラスを掲げた。
とっつァんが勢いよく酒をあおると、近藤さんも妙な対抗心で勢いよく飲み干す。

「ぷは~!」
「なんだ近藤ォ~、今日は随分ヤル気じゃねーか。」
「だってこんなに綺麗な女性がたくさんいるから、酒が旨くて旨くて!」
「やだ~、近藤さんってば。」
「男らしくてステキ~!」
「ムフフッ、どうぞ俺のことは『勲』って呼んでください。」
「「勲さ~ん♡」」
「はーい♡♡」
「……お、オジさんだって呑んじゃうもんね~!!」

…早速始まった。
こうなると手が付けられない。いつも『連れて帰ってくれ』と店から連絡がある飲み方だ。
だが今回は貸し切りの揚屋。放っておいても、適当に部屋で休ませてくれるだろ。

「…。」

こんなに騒がしくとも、とっつァんの犬は骨に夢中になっている。

…よかったな、お前には暇つぶしがあって。
俺は予定通り、窓際にでも移動しよう。そしてしばらくしたら『煙草だ』と外へ出る。そのままバックレるのもいいな。…そうだ、そうしよう。

いかに早く帰るか計画しながら、俺は酒を片手に窓の外を眺めていた。そこへ、

「…失礼いたします、」

声をかけてくる、物好きな女が一人。
『放っておいてくれ』、そう告げる前に、

「…お久しぶりです、……十四郎さん。」
「!」

声音に、心臓が脈打った。
僅かな風に運ばれて、香の匂いが鼻をかすめる。
この香りは……

「っ…、」

だが、さっきはいなかった。
まさか…幻聴か?俺が作り出した幻聴じゃねェのか?
俺の記憶と気持ちが、酒の力と相まって、都合よく脳内で再生させちまってるんじゃねーか?

「…。」

恐る恐る、声のした方を窺った。
……ああ…、

「…、」

いる。いた。
ここに、俺の隣に…またあの日のように、

「…、…久しぶりだな、……紅涙。」

紅涙はいた。