運命41

通じ合う約束

「…失礼いたします、」

いよいよだ。
いよいよ私と十四郎さんの関係が変わる。
これまでの『攘夷志士との繋がりが疑われる遊女と真選組』ではなく、『ただの遊女と客』の関係になる。より身近になるようで、より遠くなる気がする関係に。

「…、」

それでもいい。

『いくらでも払ってやるよ』

脳内で再生された記憶に吐息が漏れた。
…たとえ一夜の、今夜限りの関係になるとしても、

私は、幸せだ。

「…紅涙です。」

襖に手を掛け、頭を下げた。

「お待たせして申し訳ありません。」

顔を上げる。
薄暗い灯りの中、十四郎さんは猪口を片手に私を見ていた。その背景には一組の布団が敷いてある。

「っ…」
「どうした?」
「い、え…、…。」

途端に湧き出る羞恥心に、目を伏せる。
動揺している場合ではない。
今夜の十四郎さんはお客様。『天神』という名に相応しくあらねば失礼になる。

「早くこっち来いよ。」

ポンポンと音が聞こえ、顔を上げた。十四郎さんが自身の隣に手を置いている。

「…はい。」
「…。」
「…?」

十四郎さんの視線に首を傾げる。すると、

「…いや、」

小さく笑い、

「変わってないなと思って。」

十四郎さんは猪口に口をつけた。

「天神になったってのに、紅涙は紅涙のままだ。」
「え…あ…、…すみません。」

おそらくそれは、私が本来の『天神』ではないから。

「責めてねェよ。それどころか、変わってないおかげで…まるであの日々が昨日のように思える。」
「…、」
「……不思議な気分だ。」

クイッと酒を煽り、猪口を置いた。

「……ずっと夢路屋に来るのが嫌でな。」
「えっ、」
「この三年、ああだこうだと理由をつけて遊郭街にすら足を踏み入れねェようにしていた。」
「そ、それは……私がいるから……ですか?私に……会いたくない…から……」
「…そうだな。」
「っ、」
「違ェよ。お前が思ってるような意味じゃない。……嫌いになったとかじゃなく…、…。」

煙草を取り出し、火をつける。吐き出したばかりの白い煙を見つめ、

「紅涙を見るのが…少し怖くてな。」

呟いた。

「怖い…?」
「なんつーか…、…紅涙が遊女だと分かってるのに、他の客と過ごす様を見るのが歯がゆいっつーか…。」
「十四郎さん…」
「小せェよな。幸せを願うと口にしておきながら、フタを開けりゃこんなもんだ。我ながらつくづく…情けねェ。」

灰皿に煙草を軽く叩きつき、灰を落とす。
私は内心、驚いていた。
だって十四郎さんが話す内容は、あの日からずっと私を想ってくれていたと言ってるようなもの。もし、その通りなのだとしたら……

「…嬉しい、」
「紅涙…」
「そう言ってくださると…嬉しいです。」
「…、」

…でも。
でも今夜ここへ来る気になったということは、その想いが変わったから…ということなのだろう。

「…。」

仕方がない。
それが三年という月日。埋めるに埋められない時間なのだから。

「…最近の生活はどうだ?」
「っえ、…?」
「やはり以前のように暮らせてねェのか?」
「あ…いえ…、」
「俺に出来ることがあれば言ってくれ。力になる。」
「…はい、ありがとうございます。」
「……アイツらは今も通ってるのか?」
「アイツら…?」
「高杉や桂の連中だ。」
「…いえ、あの日を最後に一度もいらっしゃっていません。」
「そうか。」

煙草を吸い、浅く頷く。

「俺たちの方でも、アイツらの目撃情報がパッタリなくなっちまってな。もしかしたら、もうとっくの昔にどこぞへ飛んじまってるのかもしれねェな。」
「…、」

高杉がいないということは、銀ちゃん達も…みんな一緒にいなくなったのかもしれない。私のことを見張ってるって言ってたけど……

「……、」

もう…江戸には……

「…紅涙、」
「!」

ハッとして、視線を上げる。
十四郎さんはまだ長い煙草を灰皿に押し付け、

「お前が、まだここにいてくれて良かったよ。」

私に小さく笑った。

「会えて良かった。」
「十四郎さん…」
「それを伝えたかったんだ。」

言い終えると、おもむろに立ち上がった。自身の着流しを整え、私を見る。

「さっきは悪かったな。…それじゃあ。」

私の横を通りすぎた。振り返った先にあるその背中は、部屋の出入口へ向かっている。

「っえ!?とっ十四郎さん!?」

慌てて着流しを掴む。

「ど、どちらへ…」
「帰る。」
「『帰る』!?」
「天神まで育てた野郎に悪ィからな。」
「そんな…っ、…、」

引き留めたい。でも…引き留めていいの?
これが十四郎さんの気持ち。こうなるつもりで部屋に来た人。
私も…銀ちゃん達に会っていないとはいえ、今もいつか来てくれる日を待っている身で……十四郎さんと共に過ごしたいと望むのはやっぱり……
『テメェの人生だ。俺達に縛られず、好きなように生きてけばいいんだよ』

「っ、」

十四郎さんの着流しを掴む手を、ギュッと強めた。

「行かないでっ…十四郎さん。」
「…。」
「私…、…私ずっと…十四郎さんの言葉が忘れられなくて…」

これは嘘じゃない。
ずっと、来るはずのない未来を胸に秘めて過ごしてきた。今夜の誘いにどれほど胸が高鳴ったことか…。

「…、」
「確かに天神まで育ててくださったお客様はいます。けれど…、これまで一度も着物を脱いだことはありません。」
「!…ありえねェだろ、そんなこと。」
「事実です。私がここへ戻った時、女将さんと約束したので…。」
「約束?」
「はい。『遊女として客を取るなら脱がないこと。脱がない遊女として働くこと』って。」
「なんでそんな約束…、……っまさか。」

何かに気付く。
私は十四郎さんの着流しから手を離さず、未だ帰ってしまいそうなその姿を必死に見つめた。

「お金は結構です。だから今夜だけ…今夜だけでも、私と過ごしてくださいませんか…?」
「…何のために?俺はお前を育てた野郎のようには過ごせない。」
「っ…私も……、…私もそれを望んでいます。」
「…。」
「…、」

十四郎さんが瞳で問いかける。
『その言葉の意味をわかっているのか?』
私は返事のつもりで、

「十四郎さん…、」

すがるように名を呼び、頷いた。

「…なら先に女将だ。話をつけてからじゃねーと」
「女将さんなら大丈夫です。」

『幸せはみんなに平等にあるんやで、紅涙』
『アンタもそろそろ、自分の気持ちに素直になって動いてみなさい。この世の中、ジッとしててもええことなんてないんよ?』

「女将さんは、十四郎さんが来ていることを分かった上で…私を送り出してくださいました。」
「…ったく、どいつもこいつも余計な気を回しやがって。」
「お願いします、十四郎さん。」
「…………紅涙。」
「は、はい。」

十四郎さんが私の方へ向き直る。

「お前がいいなら、頼まれなくても泊まっていく。」
「!」
「…だが、」

腰を屈め、真っ直ぐに視線を合わせた。

「その前に一つ、確認しておきたい。」
「な…なんですか…?」
「俺は紅涙を天神まで上げた男と張り合う気はない。」
「…、」

それはつまり…

「……はい。」

一夜限りの…短い付き合いを前提にしているという―――

「今夜だけでは済まなくなるぞ。」
「えっ…」
「今夜を共にするなら、俺は紅涙を身請けする。」
「っ、え!?」
「やっと手に入るんだ。一夜限りで手放すわけねェだろ。」

フッと笑った。

「でっ…でも、あちらの方と張り合う気はないって…」
「だから張り合う前に身請けしちまうんだよ。明日一番にでも言われた額を用意する。」
「十四郎さん…」
「それを踏まえ、お前は俺と今夜過ごしたいと思うのか?」
「…、」

答えは決まっている。
でも嬉しくて、胸がつかえて…

「っ、」

言葉よりも先に、涙が出た。

「…紅涙?」
「嬉しいっ…!」
「…、」
「私は…私はあの日から、ずっと…十四郎さんのことを……っ」
「紅涙、」

ギュッと抱き締められる。

「…聞かせてくれ。俺の身請けに応えてくれるのか?」
「もちろんです…っ!」
「……そうか、」

十四郎さんの身体から少し力が抜けた。抱き締めた手を緩め、私と目を合わせる。

「ホッとした。」
「十四郎さん…」
「二度もフラれるのは御免だ。」
「そんな…振ったことなんて一度も……」
―――チュッ

唇に優しい熱が触れる。

「これからよろしくな、紅涙。」
「っ、は、はい!こちらこそ、よろしくお願いします!」

十四郎さんが小さく笑う。
黒く艶のある瞳の中に、赤い顔で微笑む私がいた。