一見の出逢い
江戸の街と遊郭街を隔てる関所みたいなもので、一歩越えりゃルールも変わる。だが街の外観は、
「変わらねェな。」
変わらない。
付き合いで年に一度は来るが、初めて足を踏み入れたその日から1ミリも変化が見えない。空を覆う銀色の鉄板すらも。
「…相変わらずの街だ。」
高杉の目撃情報がある『夢路屋』は街のはずれにあるらしい。一度も行ったことのない店だから、顔がささなくて良かった。
「…ここか。」
周りに比べて小振りな外観。それ以外はただの揚屋と同じに見える。
「またご贔屓に。」
店先で手を揉みながら、番頭が頭を下げていた。客と思わしき男は常連の様子で、軽く片手を挙げて立ち去る。
「…。」
あの客も攘夷浪士か…?
もしここが攘夷の拠点だった場合、関わる者全てが攘夷派ということもありえる。もちろん、あの番頭も……
「おや?」
「!」
…マズった、見すぎて番頭と目が合っちまった。……仕方ない、潜るとするか。
「…やってるか?」
「ええもちろんでございます、お客様。いらっしゃいませ。ようこそ、夢路屋へ。」
貼りついた笑顔で番頭が頭を下げた。
「ご指名はございますか?」
「紅涙を頼みたい。」
「はい?」
「紅涙だ。いるだろ、ここに。」
「…、」
何食わぬ顔して告げる俺に、初めて番頭が眉を寄せた。
「どちらの…紅涙でございましょう。」
「夢路屋の紅涙に決まってんだろ。」
「…。」
…失敗か?
やはり一発目から紅涙に会うのは難しいかもしれない。もしくは会うも何も単なる合言葉だった可能性も……いや、まだ分からねェな。とことん強気で行こう。
「聞こえてねェのか?」
「い、いえ…、…申し訳ありません。紅涙は一見さんをお断りしてまして。」
ほう、女は実在するのか。
「一見不可の話は知ってる。だが俺のことは聞いてるはずだろ。」
「…と申しますと?」
「アイツが話を通しておくと言ってたから来たんだ。」
「アイツ…?」
「高杉だ。二日前に来たと聞いてる。」
「!!」
「…仕方ねェ、電話してくる。いい店だと言っていたが、所詮この程度の――」
「っも、申し訳ありません!高杉様のお知り合いとは知らず…っ!」
番頭が深く頭を下げた。
「承知しました。ご存知や思いますが、うちの紅涙は前払い制です。よろしいですか?」
「そのつもりだ。」
「ではお代の方を…。」
受け皿を差し向ける。俺は財布から十枚の札を取り出し、
「…。」
少し悩んだ。
『ちなみに前払いは、いくらでさァ』
『十万らしいです』
本当に十万で合ってるのか?
…いや、ここは変に知ったかぶりするより素直に聞くか。今や俺が高杉の紹介で来た男。番頭が怪しむことはないはずだ。
「どないされました?」
「前払い金は十万だと聞いてるが、それでいいのか?」
「はい、仰った額に間違いありません。」
…高ェ前払いだこと。
俺は財布から十枚の札を取り出し、番頭が差し向ける受け皿に置いた。
「これで文句はねェな?」
「結構でございます。それではお部屋へご案内いたしますんで…。」
―――パンパンッ
「誰かおらんか。」
番頭が手を叩くと、つらつらと歩く女性がやってきた。この貫禄と雰囲気からして、おそらくここの女将。
「こちらの旦那様から紅涙をご指名いただきました。部屋へ。」
「…左様ですか。承知いたしました。ではお客様、こちらへ。」
「どうぞ、こちらの部屋でお待ちください。」
通された部屋は、至極シンプルなものだった。
座布団と、その前に用意された座卓が一つ。部屋の奥に黒い収納棚が置いてある以外は何もない。高価な飾り付けすらないのは夢路屋の財力のせいか、それともこの部屋には不要なのか…。
「…なんだ?」
座布団に腰を下ろし、女将を見る。ここに入った時からずっと俺を凝視していた。
「言いたいことがあるなら聞くぞ。」
「…いえ。良ければ他の遊女もお付け出来ますよってに。」
「?」
どういう意味だ?
「紅涙だけでいいが…」
「せっかく来ていただいたさかい、サービスしますえ。紅涙に用が済みましたら、ぜひお声掛けくださいな。」
『そして他の遊女にも金を落として行け』ってか?
「必要ない。」
「……左様でございますか。」
不満げな沈黙を作りつつも、女将は顔色を変えずに頭を下げた。
「それでは紅涙を呼んで参ります。少々お待ちくださいまし。」
部屋の襖を閉める。
立ち去る影を確認し、俺は改めて部屋の中を見回した。
「…調べるまでもないな。」
もっと物の多い部屋なら探りようもあったが、こうも何もないと証拠を見つけるのは難しい。
「あの中に何か分かりやすいもんがありゃ楽なんだが…。」
唯一、部屋にある黒い収納棚。
あそこに攘夷の象徴みてェな物が入ってたら……って、そんなもんあるわけねェが。
「何かあってくれよ…っと。」
煙草に火をつけ、咥えながら立ち上がろうと片膝を立てた、その時。
「失礼いたします。」
「!」
襖の向こうから声が聞こえた。俺は慌てて座り直し、煙草の灰を灰皿へ落とす。
―――スッ…
襖が開き、女が頭を下げた。
「紅涙でございます。」
顔を上げる。
「お初にお目にかかります。紅涙と申します。よしなに。」
「…、」
なんというか……
「どうかされました?」
「いや…、……、」
想像以上に普通の女で、呆気に取られた。遊女特有の化粧臭さもなければ、妖艶な笑みもない。攘夷志士と繋がっている雰囲気など、ことさら感じない。
「?」
紅涙が小首を傾げる。
「…悪い。想像していた印象と違って…少し驚いちまった。」
「それは…申し訳ありません。期待を裏切らせてしまって…。」
「反対だ。普通で良かった。」
「まぁ…。…ふふっ、それならよかったです。」
紅涙が袖口で口元を隠し、少し照れた様子で笑う。仕草や表情、今のところどれを取っても毒気は感じられない。
…山崎、お前の情報はガセだったんじゃねェか?
「お隣に失礼してもよろしいですか?」
「ああ。」
「何か飲まれます?」
「そうだな…、濁酒を。」
「ご注文ありがとうございます。」
三つ指を立て、頭を下げる。
廊下に控えていた禿に酒を頼むと、すぐに酒は届いた。
「お待ちどうさまです。」
紅涙は俺の隣に座り、酒を注ぐ。
「…先生は、」
『先生』
揚屋で客を呼ぶ愛称みたいなものだ。…が、
「…、」
目を合わせた直後、なぜかサッと視線をそらす。
「どうした?」
「…あの…、…、」
やわらかな表情が消えている。
…急に何がどうした?
「聞きたいことがあるなら言えよ。何でも……」
そこまで言って、口が固まった。
コイツ…俺が本当に攘夷派か確かめたいんじゃないのか?
「…、」
「…。」
やはり攘夷側の人間ってわけか…。なら、
「高杉が世話になってるんだってな。」
「!」
先に言ってやろう。そうすれば余計な警戒心を抱かせることもなく……と狙い通りには進まなかった。紅涙は俺の言葉に目を見開いた後、
「やっぱり…知り合いなんですね。」
苦しげに眉を寄せ、目を伏せた。
…今の言葉で、紅涙は攘夷と繋がりのある人間だと確定した。人は見た目によらねェもんだ。
……って、待てよ?
ここへ入る時に俺から『高杉』の知り合いだと名乗ったよな。そうなると紅涙が高杉の名を意識しても変ではない…のか。番頭しかり、紅涙しかり、攘夷志士の名前を知ってる市民なんていくらでもいる。
「…、」
まだ決定打に欠ける、か。
「ここには…どういう話でお越しに?」
「え?」
「…高杉から、何を聞いていらっしゃったんですか?」
「あー……、…。」
…しまったァァ!その類の会話は全く想定してなかったァァッ!というか、そもそも中へ入る段階までしか考えてねェェッ…!
「その…だな。」
「はい…、」
「……、」
か、会話!どうにか会話しねェと!!怪しまれないように上手く繋がねェと!!!
『トシィ~、お前ェは女にモテるのに扱いが下手だなァ』
『いいかァ?会話に困ったらとにかく褒めちぎれ。褒められて悪い気しねェだろォ~?なんでもいいから会話を増やして、そこから次の話題を見出しゃいいんだよ』
「っ、そうか!」
「えっ…?」
「あ、いや…、」
神のお告げ、もとい、とっつァんの助言だ!
「夢路屋にイイ女がいると聞いてな。」
「イイ…女?」
「アイツが足しげく通うなんて珍しいから、ちょっと見てやろうと思って。」
「ああ…、……そう…だったんですか。」
再び紅涙が目を伏せる。なぜかさっきより悲しげに見えた。
「…。」
な、なぜだ?なぜ褒めたのにこうなってる?俺の褒め方がホワッとしすぎてたせいか…!?
「っわ、悪ィ。」
「え…?」
「世間話が苦手なんだよ、俺。」
「…、」
紅涙が目を瞬かせる。俺は自嘲して、酒の水面を見た。
「これだけはどうやっても上手くなれねェんだ。総……部下は嫌なくらい口が立つんだが、俺の方はからっきし駄目で。」
「部下…、……高杉の?」
「いや、俺の。」
「…先生は高杉と一緒に行動されていないんですか?」
「!」
ミスった…。
「お、俺は……、…、」
なんと答えれば辻褄が合う?無理にこじつけ過ぎても危ねェだろ。薄く関係性を匂わす程度に抑えておかねェと……
「…アイツとは最近会ってねェから。」
「そう…なんですか?」
「ああ。忙しいらしくてな。…何か聞いてねェか?」
「いえ…何も……。」
「?」
なぜここで暗い顔になる…?高杉と俺が親密じゃねェからか?いやでも高杉の知り合いだと言った時も暗い顔になってたし……
「じゃあ先生は…」
「あ、ああ…何だ?」
「今日は…どのようなご用でお越しになったんですか?」
用、か。
「ねェよ。」
「え?」
「言っただろ?お前が気になって見に来た。それだけだ。」
「……、」
キョトンとした顔で紅涙が俺を見る。けれど、
「…ふふっ、」
ようやく頬が緩んだ。
「先生は不思議な人ですね。」
「そうか?」
よく分からねェが…まァお前に笑顔が戻って良かったよ。
俺にしてみれば、紅涙の方が不思議だ。遊女にしては表情がころころ変わる。攘夷に関係する人間にしては、隙が多すぎる。
「何か食べられますか?」
「そうだな、じゃあマヨネーズで。」
「え…?ええっと…野菜スティックですか?」
「いやマヨネーズ。」
「??」
「ああ悪ィ、俺マヨネーズが好きなんだよ。だからマヨネーズさえありゃ十分だ。」
「で、でもマヨネーズは何かに付けて食べる物ですし…」
「いや、単品でいい。マヨネーズ単品で」
「…ふふふふっ、」
その後も紅涙とは他愛ない話をした。
好きな食べ物から始まり、酒の得意不得意とか。付き合いで飲むのは大変だよなと分かり合ったりした。
そんな中でも何度か攘夷との繋がりを確認しようと試みたが、やはり絶対的に裏付けるような会話にはならない。はぐらかされるというよりも、おそらく俺の聞き方が下手なせいだ。総悟なら早々に聞き出していた気もする。
…まァ下手だからこそ、紅涙とこうして笑い合えたのかもしれねェが。
「紅涙、お時間ですよ。」
「「!」」
襖の向こうから聞こえた声に、二人して驚く。
「っぁ、いけない!」
紅涙は小さく声を上げた。
…そうだった。高杉の紹介とはいえ、俺は一見の客。初回の滞在には時間制限がある。
「もうそんな時間になってたんだな。」
…って、何言ってんだ俺。
「も、申し訳ありません。私が言わなくちゃいけないのに…楽しくて、すっかり時間を忘れていました。」
「うまい言い方じゃねーか。」
「ふふっ、本心ですよ。」
やわらかに微笑み、紅涙は三つ指を立てて頭を下げた。
「本日はありがとうございました。またのお越しを…」
「ああ、また来る。」
「お待ちしております。」
俺は、この笑顔をまた見たいと思った。
「……ふぅ。」
揚屋を出て、煙草に火をつける。大きく吸って息を吐き出せば、俺の溜め息は煙のまま漂った。
「…やべェな、」
ひとり呟く。