運命7

甘味屋の団子

坂本さんが来た次の日の夜。
女将が私を呼びに来た。

「紅涙、お客様やよ。」
「あっ…はい。」

内心、少し驚いた。
銀ちゃんや桂さんは夜に来ない。また坂本さん?でも二日続けて失恋なんてするのかな…。他に来る人と言えば……高杉しかいないけれど。

「…、」

キセルの匂いを思い出し、動悸がする。
…やめよう。誰が来たか考えたところで状況は変わらない。
逃げ出したい心を抑え、私は自室を出た。そこには珍しく、

「どう…しました?」

女将が待っている。

「えらい浮かん顔してるやないの。」
「あっ…、……す、すみません。」
「何かあったんか?」
「いえ、……少し眠くて。」

困ったように笑うと、女将が私の髪飾りを整えてくれた。

「しっかりしぃや。銀時が心配してたで?ちょっと痩せたんちゃうかって。」
「ふふ、ちっとも痩せていませんよ?銀ちゃんが心配症なだけです。」
「確かにあの子はちょっと過保護なとこあるわ。アンタが変わりない言うならそれでかまへんけど、何か気に病むようなことあったらちゃんと言いや?」
「はい、ありがとうございます。」
「…それはそうと、」

頬に手をあて、女将が溜め息を吐く。

「一昨日、高杉様がお見えになったやろ?」
「は…はい。…それが何か…?」
「今、知り合いや言う人が来はったんよ。」
「えっ…!?」

知り合い?そんなこと…これまで一度もない。

「一見さんやねんけど、『高杉から聞いてるやろ』言うてはんのよ。何か聞いてた?」
「いえ……、…何も。」
「そうか…。」
「すみません…、」
「アンタが謝ることちゃうわ。たぶん高杉様が言い忘れはったんよ。一見さんの話は合うてるし、とりあえず部屋にはお通ししたから。」

高杉の…知り合いが……。

「あの、」
「ん?」
「その方は…私を指名されたんですか?」
「そうやで。なんや用事がありはるんやろ。終わったら他の遊女を付けましょかて聞いても、『紅涙だけでええ』言うて断りはったわ。」
「そう…なんですか。」
「…どないする?嫌やったら他の子を出すけど。」
「え…」

でも…

「私を…ご指名されたんですよね?」
「せやよ。けどアンタはご新規さん久しぶりやろ?あの子らの知り合いやし悪い人ちゃうやろうけど、気が重いなら無理に出ることもないんちゃうか思て。」
「女将さん…」

女将さんは優しい。楼主と桂さんの繋がりで転がり込んだ私を、こうして気に掛けてくれる。…だから、

「…大丈夫です。」

頑張らなきゃと思う。夢路屋にこれ以上迷惑を掛けないためにも、私が出なければ。

「アカンような人やったらすぐ言いや?うちが蹴り飛ばして、追い出したるさかい。」
「ふふっ、ありがとうございます。」

女将に頭を下げ、

「行ってきます。」

私は一見さんの元へ向かった。

部屋の前で正座し、襖に手を掛ける。
不意に、

「…、」

煙の匂いが鼻をかすめた。キセルの香りとは少し違う。それでも僅かに手が震え出した。

「…。」

…落ち着こう。この中にいる人は、高杉の知り合いであっても高杉と同じ考えとは限らない。新しい気持ちで…お出迎えしなければ。

「失礼いたします。」

襖を開き、頭を下げた。

「紅涙でございます。」

顔を上げる。部屋にいた人は、聞いていた通り見たことのない人だった。黒髪で、目つきが鋭い印象。

「…お初にお目にかかります。紅涙と申します。よしなに。」
「…、」

身構えつつ、お客様の声を待つ。けれどなかなか話してくれない。動きもしなかった。私を見ながら何か考えている…のかもしれない。

「…どうかされました?」
「…悪い。想像していた印象と違って…少し驚いちまった。」
「それは…申し訳ありません。期待を裏切らせてしまって…。」
「反対だ。普通で良かった。」
「まぁ…。…ふふっ、それならよかったです。」

内心、笑った自分に驚いた。
意外な言葉を貰ったせいかもしれないけど、ここまで自然に笑えるとは思わなかった。

この人のまとう空気にあるのかもしれない。ここへ来る人は皆、何かしらの想いを持ってくる。だけどこの人からは何も感じ取れない。実際、

「じゃあ先生は…」
「ん?」
「今日はどのようなご用でお越しに?」
「ねェよ。」
「え?」
「言っただろ?お前が気になって見に来た。それだけだ。」

そんなことを言って、猪口に口をつけた。

「…ふふっ、」

まるで銀ちゃんみたいだ。

「先生は不思議な人ですね。」
「そうか?」

初見でそんな風に思えるなんて、不思議。
結局お客様は最後まで私に指一本触れず、他愛ない話とお酒を飲んで帰って行った。

「お疲れさんやったね、紅涙。」

自室へ戻る時、女将さんが声を掛けてくれた。

「さっきはすみませんでした。私、時間のことをすっかり忘れていて…」
「かまへん。それだけ楽しかったいうことやろ?」
「…はい。」
「ええ人で良かったやないのぉ。次もまた来てくれはるん?」
「来るって言ってくれましたけど…」
「ようやった!」

ドンッと私の背を叩く。

「でっでも本当かどうか分かりませんし…」
「安心しぃ、あの一見さんはそんな安っぽい嘘つく顔してはれへんかった。絶対来はるで。それに番頭が言うにはぎょうさんお金持っとったらしいから。」
「そうなんですか。」

だから前払い金もポンと出せちゃうんだ…。

「大物やで、紅涙。離さんように頑張りや!」

女将さんは『また絶対に来る』と言ったけど、私はもう来てくれないような気がしていた。
お金持ちだからこその遊び。高杉の話を聞いて興味がてら覗きに来た、一度限りの人だと思う。

「本当に高杉の知り合いかどうかも怪しいし…。」

もっと警戒した方が良かったのかな。銀ちゃんや桂さんに伝えておいた方がいい…?

「…でも本当にそれだけの無害なお客様だったかもしれないし…、……。」

言えばきっと『もう通すな』と言われる。特に銀ちゃんが。

「私は…、」

私は……願わくば、

「また…お会いする機会があるといいな。」

もう一度、逢いたい。

その日の夜は、なかなか寝付けなかった。あの人の綺麗な横顔が瞼の裏に焼き付いている。いつまで経っても胸が落ち着かなかった。

…だからこそ、次の日に私は幻を見たと思った。

「どうした?」
「い、いえ…、…まさか来てくださるとは…思ってなくて。」

驚いた。翌日の夜に続き、お客様が来てくれた。

「『また来る』って言っただろ?」
「そう…ですけど…、…。」
「…そうだよな。『また』にしては少し早すぎたか。」
「っい、いえ!嬉しいですよ?私もっ…、…。」
「『私も』?」
「……私も…お会いしたかったので。」

これは遊女の決まり文句。
けれど私は、心の底から気持ちを乗せて言った。ちゃんと伝えられたか分からないけど、

「…そうか。」

お客様は小さく頷き、酒を口に運んだ。

「……今日お越しになった用事は?」
「特にない。」

…ふふっ、

「それじゃあ、また…私に会いに?」
「ああ。」
「ふふふっ、」

嬉しい。単純に私はそう思っている。

「なんだ?今日は随分楽しそうじゃねーか。」
「昨日も楽しかったですよ?」
「時間を忘れるくらいに、な。」
「もうっ、言わないでください。」
「悪ィ。」

フッと笑う。
明日も…明日もこんな夜だといいな。

「……先生、」
「うん?」
「あの、あし…、……。」
「足?」
「……あ…、」

『明日も来てくれますか?』
そう聞きたいけれど…聞けない。
断られるのが怖かった。もう来ない、来れないと返されるかもしれないと思うと…怖い。けれど今のままではまた来てくれる保障もない。

「…あ…あの、」

なにか…また次も会える約束をしたい。会わなければと思うような…約束を。

「どうした?」
「……野中茶屋って、知ってますか?」
「大江戸通りにあるやつか?」
「はいっ!あのお店、みたらし団子がすごく美味しいって聞いたんです。…先生は食べたことあります?」
「あるよ。マヨネーズをかけりゃ江戸一番の団子だ。」
「ふふっ、」
「紅涙は食ったこと……ねェか。」
「残念ながら。」

野中茶屋があるのは遊郭街の外。
遊女として働く以上、遊郭街から出られない。出られるのは身請けしてもらった後か、…骨になった時だけ。

「…食いてェのか?」
「っはい!」
「フッ…そんなに身を乗り出すほどかよ。」
「あっ、」

気付けば、お客様の座布団に手をついていた。

「ごっごめんなさい!」

下がろうとしたら、

「いい。」

手首を掴まれる。

「傍にいればいい。」
「っ…、……はい。」

心臓が、うるさい。こんな距離…ううん、もっと近い距離で他の人と触れ合ってきたのに、

「…っ、」

この人が少し触れるだけで、倒れてしまいそうなくらいクラクラする。

「買ってきてやるよ、団子。」

煙草に火をつけ、ふぅと煙を吐いた。

「明日、持ってきてやる。」
「えっ…本当ですか!?」
「ああ。…くくっ、約束する。まさかそこまで食いたかったとはな。」

嬉しいのは、お団子よりもあなたにまた会えること。

「私、おいしいお茶を入れて待ってますね!」
「揚屋でお茶とは乙だな。」
「あっ…、お酒の方がよろしいですか?」
「いや?なんでもいい。紅涙が…、…入れるもんなら何でも。」
「…お上手ですね、先生。」

耳が熱い。うつむいて自分の頬に触れると、頬も熱くなっていた。きっと私、今真っ赤だ。

「十四郎。」
「え?」

顔を上げる。

「俺の名前、十四郎っていうんだ。」

灰皿に煙草の灰を落とし、私を見た。

「とう…しろうさん…?」
「ああ。『十四』って書いて、よくある『郎』で十四郎。」

十四郎…。

「これからはそう呼んでくれ。『先生』はナシ。」

小さく笑う。私は頷いて、

「十四郎…さん…、」

声にした。自分の声が耳から入った途端、身体に十四郎さんの名前が染み込んでいくような気がする。

「…それじゃあ今日はこれで帰るから。」

咥え煙草で立ち上がった。

「えっ、もう…お帰りになるんですか?」
「そんな顔しなくても明日も来る。」
「!」

わっ私…どんな顔して……

「明日は旨い茶、期待してるぞ。」
「っは、はい!」
「じゃあな。」
「ありがとうございました…!」

慌てて三つ指を立て、頭を下げる。襖が開き、閉まる音がした。

「…、」

ゆっくりと顔を上げる。
部屋には私が一人きり。それでも寂しさはない。明日の約束があるおかげで。

「十四郎さん…、」

誰かの残り香で名前を呼んだのは、これが初めてだった。