退くんの恋人 3

これは恋ではありません

「それじゃあ土方さん、お気を付けて…。」
「はい。おやすみなさい、紅涙さん。」
「…おやすみなさい。」

土方さんの背中を見送って、静かに玄関を閉める。

「…はぁ……。」

毎日いらっしゃるあの人は、退さんの上司だ。
あまりお喋りな人じゃないはずなのに、なんだかんだでいつも話す時間は長く、

「『また明日』…か……。」

一緒に過ごす時間は、短く感じる。

「…お待ち、しています…。」

見送った後の、言いようのない寂しさが自分でも理解できない。
会話が楽しくて、土方さんと過ごす時間に物足りなさを感じているのか、それとも他に…想うところがあるのか。

「……っ、いけないわ。」

思案する度、そこに辿り着いてしまう。

「私には、退さんがいるのに…。」

考えを掻き消した。
部屋の隅で眠ったままの退さんを揺すり起こし、布団で寝るよう促す。

「…はれ…?副長は…?」
「もう帰られましたよ。ほら、風邪をひきますから布団へ。」
「うん……、」

退さんは寝ぼけながら歩いていく。フラつくその後ろ姿に、小さく笑った。
実のところ、退さんと過ごした時間を思い出せない。おかしなことではあるが全く思い出がないのだ。おそらく平々凡々と過ごしてきたせいで、他の記憶に埋もれてしまったのだろう。

「まだ結婚もしていないのに、既に熟年夫婦みたいだわ…。」

何十年と共に暮らしてきたかのような空気感。
こうして生活していても、初々しさやドキドキ感すらないのだから。…なんていうと、彼が傷ついてしまうかもしれないけれど。

「……きっとそこが退さんの魅力なのよね。」

私にとって退さんは大切な、大好きな存在…のはず。だからこうして一緒に生活しているのだ。
だというのに…どうしてか私の心は揺れる。

「土方さん……、」

あの人に…逢う度に。

翌日。
土方さんは予告通りに家へいらっしゃった。
もれなく毎日夕飯を食べて行かれるので、決まって三人分作っている。嫌ではない。むしろ…嬉しい。

「あっ土方さん、そのマヨネーズを取っていただけますか?」
「はい、どうぞ。」

僅かに触れる指先。受け渡すだけの接触。そんなことにもドキッとしてしまう。退さんには、こんな気持ちにならないのに。

「っ、あっ、ありがとうございます…。」
「いや…。」

一緒に生活する人と比べてはいけないのかもしれない。退さんじゃないからこそ、こんな想いになるのかもしれない。

「…紅涙さん、」
「はっはい…。」
「……。」
「……っ、なん…ですか?」

黙って見つめられると、心臓が飛び出してしまいそうになる。私は小さく震える手を隠すように、箸を置いた。

「あ、の……?」
「…マヨネーズ、」
「?」
「そのマヨネーズ、あまり使い過ぎないでくださいね。俺、まだ使うんで。」
「…え、どんだけ!?」
「!」
「あっい、いえ…はい、あまり使いません…はい。」

気付けば、稀にツッコミを入れてしまうことがある。それもほぼ無意識だからタチが悪い。私のツッコミを受ける度に土方さんはハッとした表情をした。たぶん気分を害している。
…当たり前よね。部下の嫁に馴れ馴れしくツッコミを入れられたら、誰だって驚くに決まってる。

極力、退さんのためにも、つつましい私でいなければ。土方さんとの距離感も自然に…、自然にしなければ。
そう思うのに、

「……、」

ふとした時、私の視線は土方さんを捉えてしまっていた。すると大抵、いや必ず土方さんも私を見ている。

「……。」
「っ…、」

互いに何か用事があるわけじゃない。けれど、偶然でもないような気がする。
私はいつも視線をそらす方法が分からなくなって、微妙な微笑みを返し、台所へ逃げた。

「…ど、どうしよう……、」

シンクに向かって一人呟く。心臓がうるさくて、胸を握り締めた。
土方さんが…私を見ていた。いつから見られていたの…?
彼の視線を気持ち悪いとは思わない。それどころか、視線を絡ませるだけで私の心臓はせわしなく動く。まるで子どもの恋のように。

「……恋?」

声に出して、ハッとする。違う、きっと違う。だって私には退さんが……いるんだから。

そんなことを毎日思っていた。
土方さんが来て、帰る度に切なくなる。そして毎晩、私は退さんの寝顔を覗き込んで考えるのだ。

「……、…ドキドキしない。」

どれだけ見つめても、鼓動が高鳴らない現実。

「なんで……」

私の心臓は、とても空気が読めなかった。…空気。

「…ああ、そうか。」

空気になっているせいだ。熟年夫婦並の生活のせい。昔はドキドキしていたんだろうけど、いいか悪いか、耐性がついたせいだ。
…だったら仕方ない。

「だってあの人、カッコイイんだもの。」

残念なことに、退さんより土方さんの方がカッコイイ。それは事実。だからドキドキしても仕方ない。
けれど私が退さんと同棲する今がある以上、私は退さんを選んだ。土方さんではなく、退さんを。

「…どうしてかな。」

いや、生活に不満はない。不満なんて見つからない。つまり幸せだということなのだろう。
だから私は、

「退さんが土方さんみたいにカッコよくなりますように…。」
「…うぅ…っ…、」

せめてもの願いとして、毎夜、彼の寝顔に祈りを捧げるのだった。

そんなある日。

「うわっもうこんな時間!行ってきます!」
「はーい、行ってらっしゃいませー。」

寝坊した退さんが駆け出して行った。
どうやら最近、寝つきが悪いらしい。毎夜、退さんの夢に土方さんが出てくるそうで。

「羨ましいな…。」

ごみ袋を結びながら、そんなことを口にした自分に驚いた。

「……こ、これは芸能人的なアレと同じで…。」

誰もいないのに言い訳する。否定しないと、越えてはいけない境界線を越えてしまいそうだった。

「さ、さーてと。ゴミ出しして洗濯物を…、…あれ?」

玄関に向かおうとした時、机の上に乗ったままの包みを見つける。それは紛れもなく、私が退さんのために作ったお弁当だった。
それだけじゃない。その横には彼が昨日、一生懸命仕上げていた数枚の書類が置かれている。

「もしかして退さん…忘れた?」

確か、『提出しなきゃ殺される!』とか言っていたような気がするのに。

「…届けなくちゃ!」

私はお弁当と書類を持って玄関へ急いだ。

「ああっゴミ!」

慌ててゴミ袋を取りに戻り、無茶な体勢で全ての荷物を持つ。お弁当がかなり横になったが、この際どうでもいい!
家を出て、ゴミを出し、お弁当は気持ち傾いていた方と逆の方へ少し振った。書類を片手にしっかりと握り、私は、

「ここが…真選組屯所……?」

はじめて、退さんが勤める場所へとやって来たのだ。

にいどめ