退くんの恋人 5

そろそろ漁の季節です

「~♪」
「何だか最近ご機嫌だね、紅涙さん。」
「えっ!?そっ…そう、かな。」

朝、居間で料理本を見ていた私に退さんがにっこりと話し掛けてきた。とっさに料理本を閉じる。どことなく…やましくなって。

「料理本って、俺でも見てるだけでワクワクするよ。いつ作ってくれるの?」
「え!?あ、あー…これは見てるだけ。」
「ええ!?作ってくれないの!?」
「…うん。」
「何それ!見るためだけに本買う!?」
「かっ買うよ!もうっ、うるさいな!」
「…あ、あれ?なんか雰囲気…変わった?戻ってる…?」
「何か言った?退さん。」
「う、ううん…なんでもないよ。」

あのお弁当の約束をした日から、私の頭は五月五日に向けての準備でいっぱいいっぱいだった。もちろんこれは嬉しさでいっぱいいっぱい。
頭の中で何度もおかずの配置を考え、何度も詰め直す。…けど、これは退さんのいない時にしなきゃ駄目ね。
私はいそいそと料理本を本棚へしまった。その背中に、

「あのさー、」

退さんが声を掛けてくる。

「なに?」
「いきなりなんだけど…今夜、外食しない?」
「え…今夜?急だね。」
「実は局長が紅涙さんに会いたがってるんだ。今ちょうど暇してる時だし、今夜辺りどうかなって話になってて。」

そう…なんだ。
でもどうして局長さんが私に会いたがるのかしら…。やっぱり部下の同棲相手だから気になるのかな。

「行かない?」
「……、」

少し気後れする。
けれど局長さんとのご飯だ。退さんの上司。行かないわけには……いかないんだけど。

「三人で食事するの?」
「いや、四人だよ。副長も来るから。」
「えっ!?」
「俺と局長と副長と紅涙さんでご飯。」

土方さんも来る!?

「喜んで行きますっ。」
「っな、なんかすごい目の輝きが……。やっぱり戻ってるんじゃない?」
「…何のこと?」
「いや…違うならいいんだ。えっと、じゃあ今夜屯所の前まで来てもらっていいかな。」
「うん、わかった!」

そうして夜、
私は仕事終わりの彼らと真選組の屯所前で待ち合わせることになった。

「早く来すぎちゃったかも…。」

言われていた時間よりも少し早い。と思ったけれど、既に門前に人影がある。
ま…まさかまたあの門番達が!?

「っっ…。」

私は様子を窺いながら近付いた。
今日の門番は一人らしい。その黒い髪の人は、何やら白い煙をゆらゆら連れている。

「あ……、」

あの煙は、煙草の煙だ。あそこに立っている人は…門番じゃない。

「…お疲れ様です、土方さん。」

私はその人に声を掛けた。土方さんは煙草から口を離し、やんわり微笑む。

「紅涙さん、お疲れ様です。」
「…もしかして私、遅かったですか?」
「いや、俺が早かったんですよ。」

土方さんがフッと笑うだけで、私の胸がいちいち高鳴る。

「……、」
「……。」

沈黙の間すら、いじらしかった。
もっと土方さんと話したい。もっと土方さんを知りたい。
この人を前にすると、自分の気持ちを咎める『私』はもういなくなっていた。

「…あ。紅涙さん、」
「はい?」
「少しジッとしててください。」
「…え?」

土方さんが私に向かって少し屈む。手を伸ばしたかと思うと、私の前髪にそっと触れた。

「糸くず、付いてます。」
「っす、すみません。…ありがとうございます。」
「いえ。」

小さく揺れた前髪の向こうで、土方さんが微笑む。

「っ…!!」

ちっ近い!
思わずギュッと目を閉じた。

「あ、っと。」
「?」
「ああそのまま。目を閉じててくださいね。まつ毛に引っ掛かってしまったので。」
「っは、はい…!」

土方さんの指がまつ毛に触れる。

「……、」

ど、どう…なんだろう。取れたのかな…?目を閉じたままでいるのって、かなり無防備……

「……紅涙、」
「!?」

い、今…私の……こと……?
驚いたのはそれだけじゃない。やんわり、私の唇を土方さんの指がなぞった。

「っ!?」

さすがに目を開く。
土方さんは私にニッコリと微笑み、「取れましたよ」と糸くずを見せた。

「…あっの、」
「はい?」
「……、…い…いえ……何も。」

普通だ。あまりに普通で、さっきのことは私の妄想なのかと思うほど。
おかしい…。確かにさっき名前で呼ばれた…よね?それに私の唇を触ったはず……

「どうしました?」
「え…?」
「唇、触ってるから。」
「!」

指摘されて気付いた。

「あっ、あー…いえ、唇が荒れる季節だなと思って。」
「そうなんですか。…ああそう言えば前に言ってたな。」
「…え?今何か…」
「いえいえ。」

「おう!来てたのか二人とも!」
「あ、紅涙さんお疲れ様~。」

屯所の中から、退さんとガッシリした体格の男性が出てきた。この人が局長さんかな。

「近藤さん遅ェよ。」
「悪い悪い。トシと早雨君は一緒に来たのか?」
「一緒に!?」
「…近藤さん。紅涙さんは今、山崎と住んでるから。」
「あ~!そうだったな、すまない。すぐ忘れちまって。」

近藤さんと呼ばれた局長さんは、頭を掻きながらガハガハ笑う。そして私を見ると、大きく頷いた。

「じゃあ初めましてだな、早雨君。」

『早雨君』…?

「は、はい…、早雨 紅涙と申します。」
「俺は近藤 勲、ここの局長をやっております!どうぞよろしく!」
「よ、よろしくお願いします。」

活発さに圧倒される。とはいえ、明るい笑顔が素敵で良い人そうだ。
…あ!私、肝心なことを言い忘れてる。

「山崎がいつもお世話になっています!」

頭を下げた。

「「「……。」」」
―――ドスッ
「うっ…!」
「……?」

妙な静寂と鈍い音に顔を上げる。退さんが涙目で腹部をさすっていた。

「退さん…?」
「だ、大丈夫。挨拶はその辺にしておこうか。俺がサンドバッグ化しちゃうから…。」
「サンドバッグ?」
「おっと、予約の時間に遅れるんじゃねェか?…山崎。」
「ヒッ、はっはいそうですね!行きましょう!」

退さんがテキパキと歩き出す。局長さんも笑って、歩き出した。

「それじゃあ俺達も行きましょうか。」
「は、はい。」

土方さんに声を掛けられ、二人で歩き出した。

「……、」

四人いれば、自然と二人ずつ歩くことになる。てっきり私の隣は退さんだと思っていたのに、このままいけば土方さんだ。…緊張する!

「こ、ここから近いんですか?」
「ええ。五分くらいのところにある料亭です。」
「料亭…!」
「普段あまり使わない場所なんですがね。なんか近藤さんが張り切ったらしく。」

土方さんが弱く笑う。

「まァ、今夜は楽しんでいってください。」
「は…はひ……、」

思わず声が掠れた。土方さんに見惚れたせいだ。
だってこの人…いつどこから見てもカッコいいんだもの…!

「……さん、」
「……、」

ずっと見ていられそう…。

「紅涙さん。」
「っ、はっはい!」
「…大丈夫ですか?」
「すみません…、大丈夫です。」

見惚れていただけです…なんて言えない!

「…山崎についてなんですが、」
「?…はい、何でしょう。」
「紅涙さんは山崎のこと、どう思ってますか。」

質問の意図が汲み取れない。

「え、えっと…?」
「山崎のこと、どう見てますか。」

どうって…

「真面目な人…でしょうか。」
「好きですか?」
「えっ、」
「真面目なヤツは好きですか。」

ど、どうしたんだろう…土方さん。

「不真面目な人よりは好き…ですけど、……、」
「けど?」
「……、」

『あなたの方が好きです』
そんなことを言ったら、土方さんはどう思うだろう。軽蔑…するのかな。

「っ……。」

冷静な自分を掻き集める。
おそらく土方さんが聞きたいのは、私から見る山崎さんの印象だ。私の個人的な感情うんぬんではなく、勤務時に分からない内面を知りたいだけ。
昇進か何かに使われる情報なら、良いように言ってあげなくちゃ…。

「退さんは……優しい人ですよ。」
「……。」
「人当たりが良くて…裏表もない。きっと、いい旦那さんになると思います。」
「……好きなのかよ。」
「えっ…」

土方さんが足を止めた。言葉遣いが…いつもと違う。

「今のお前は、本当に山崎のことを好きになっちまったのか?」
「土…方さん……?」

待って…、その言葉の意味は…?
それに、

「今の…私って……?」

わからないことが多すぎる。

「……。」
「土方さん…?」
「俺は…、……楽になりたいわけじゃない。だが、」

眉間を寄せ、苦しそうに息を吐く。

「そろそろお前の気持ちを…聞いておきてェんだ。」
「私…の…?」
「まだ先なのか、それとも兆しがあるのか…、…把握しておきたい。」
「…?」
「深く考えなくていい。今のお前の心にいるのが誰なのか…言ってくれればいいから。」

眉間に皺を残し、土方さんが私を見る。
思えばこの人はいつも真っ直ぐに私を見ていた。ずっと…私のことを見てくれていた。

「お前は、誰が好きなんだ。」

……私は、

「私が…好きなのは……、…。」

……言えない。

「……失礼します。」

自分の気持ちは分かっている。舌先まで言葉も出ていた。
けれど、そんな簡単に口走っていい言葉じゃない。だって私には退さんがいる。その先を言えるようになるのは、退さんと別れてからだ。

「紅涙!」

心から呼び留める声に、身体が止まろうと反応した。しかし私は脳で足を動かし続ける。

「……、」

土方さんはそれ以上、私を引き留めなかった。
料亭まで何も言わず、横に並んで歩くことすらもなくなって…。

初めて私達は、こんなにも重くて気まずい時間を過ごした。

にいどめ