理性という壁
「わぁぁっ!」
地上五階建ての和風建築は、まるで江戸城のような造りで、反射するほど磨かれた廊下が至るところに伸びている。朱色の柱と至る所にある金の飾りが、否が応でも高級感を漂わせた。
「こんなところ初めてです!」
「うん?前に早雨君も来たじゃないか。ほら、とっつぁんと…」
「局長!前の話はナシですよ!」
「おおっ、そうだったそうだった。」
退さんと局長さんが「もう」とか「すまん」とか言いながら笑い合う。土方さんはと言うと、
「……。」
私の少し後ろで、冷めた顔をしていた。この不機嫌そうな原因はもちろん私…にあると思う。
『お前は、誰が好きなんだ』
あの話題になるまで、機嫌悪くなかったし…。
「しかしまだ桜が見れるとは思わなかったなァ!」
局長さんが嬉しそうに見上げる。そこには屋内だというのに、建物の中央に大きな桜の木が生えていた。
「すごい!…本物?」
「本物だよ。」
退さんが答える。
「なんでも経営者の子どもが桜好きらしくて、どこから見ても桜の木が見えるような店にしたんだって。」
「ステキ…。」
「ふふっ、喜んでもらえて良かったよ。いくら忘れたといっても、やっぱり本質的な部分は変わらないね。」
「どういう意味?」
「人はそう簡単に変われないってこと。」
苦笑する退さんに、なおも私は首を傾げた。
「あ、そうだ紅涙さん。」
退さんが私にコソッと耳打ちする。
「今日の食事は経費で落とせるらしいから、暴飲暴食していいよ。なんなら明日の分も持って帰ろう。」
そう言って、二ヒヒと笑う。小ズルい考えに、私も小さく笑った。
「もう、退さんったら。」
「へへっ。」
二人で笑っていると、
「…おい。」
「「!?」」
後ろから声が掛かる。振り返ると、今までに見たことがないほど鋭い眼をした土方さんが、退さんを見ていた。
「…とっとと歩け。」
「っは、はヒ!」
刺すような視線を受けた退さんが、スタスタと歩いて行く。
「あっ…、」
置き去りにされた私を、土方さんが横目で見た。
「行かねェのか。」
「……、」
口調に遠慮がない。それだけ、私に怒っているのだろう。
「あの……」
「…なんだ。」
「……、」
このまま行って、楽しめるかな…?きっと土方さんの顔色ばかり見て、楽しめない自信がある。
「…すみません、なんでもないです。」
「……。」
やっぱり退さんに言って帰らせてもらおう。
私は退さんの背を追った。今は一秒でも早く、土方さんの視線から逃れたい。
そう思っていたのに…
「今日の部屋は最上階だぞー!」
局長さんが嬉しそうに叫び、エレベーターを呼ぶ。タイミング良くエレベーターが来て、私は退さんに耳打ちする間もなく乗り込まなければいけなくなった。
出来れば乗る前に言いたかったのに…。部屋に入るまでには言えるかな。…ううん、言わなきゃ。
「退さ――」
「局長、ここって確か桜のシーズンだけ特別メニューでしたよね!」
「ああ!前に飲んだ桜酒は粋だったよな!いい感じに桜の花びらも部屋に入ってきて……」
…ダメだ、退さんと局長さんが楽しげに話している。
土方さんは何を考え込んでいるのか、エレベーターの隅で難しい顔をして腕を組んでいた。
「……、」
息苦しい。
ここに来るまでは、この人といるだけで幸せだったのに…。あんなに毎日一緒いても、機嫌を直す方法すら分からないなんて……本当に私は、何も考えずに過ごしてきたんだな。
ここまで来て帰るなんて最低の行為だけど、せめて……土方さんがこれ以上、苛立たないように。
「着いたぞ~!」
帰ろう。
局長さんが降りて、退さんが降りる。続いて私も降りながら、
「退さ……」
呼び留めるようとした、その時、
―――グッ…!
「っ!?」
左腕を後ろへと引っ張られた。
あまりの強さで、後ろ向きに倒れそうになる。そんな私の背を、トンッと支えた人がいた。
「っ…、…土、方さん?」
私を引っ張った本人、土方さんだ。
「あの…」
「……。」
土方さんは一瞬だけ私を見ると、すぐにエレベーターの『閉』ボタンを押す。
「えっ…?」
ゆっくりと扉が閉まった。先に降りた二人が振り返る。
「お?」
「あれ?」
局長さんと退さんがこちらへ戻ろうとした。その様子を最後に、
―――パタン…
エレベーターは静かな音を立てて扉を閉めた。
おそらくは今頃、二人して外側から『開』ボタンを押してくれているのだろう。けれど扉が開くことはない。なぜなら、
「…え…、…あ、あの…」
「……、」
土方さんの左手が、『閉』ボタンを押したままでいるからだ。なおかつ右手では私の手首を掴んでいる。
「ど…どうしたんですか?」
状況が理解できない。それなのに、私の鼓動は耳に届き始めていた。
「…悪い、紅涙。」
土方さんの切羽詰まった謝罪を耳にする。その言葉を言い終えた彼が近付いてきた距離に、息をのんだ。
「っ、」
「もう…我慢の限界だ。」
またひとつ近付く距離に、心が震える。
恐くてじゃない。…嬉しくて。これほどまで私を求めてくれることが嬉しくて、身体の芯が興奮して小刻みに震えた。
なのに。
私の口は、身体と逆のことを声にする。
「…だめ、…です、よ。」
なんて口先だけの言葉だろうと、冷静な自分が言った。視線は土方さんの唇を見つめたままなのだから、
「紅涙…、」
「あっ…」
この先を期待していることは、土方さんもお見通しだった。
「ん…」
私達の唇が触れる。熱も感じないほど、ほんの僅かな一瞬だけ。
「…ぁ…、…」
それでも私はその口づけに鳥肌が立っていた。身体の内側を、何かが走り抜ける。
今の、…なに?
頭の隅で考えながら、土方さんを見上げた。目が合う前に、また唇が触れる。
軽い口づけを繰り返し、息をしようと口を開けば隙を狙われるかのように深くなる。
身体がザワつく。これ以上は駄目だと、今度は身体が言った。
「っ、はぁ、っ、ダメっ、」
「……うるさい、」
「人も、っ、来ますし…」
「来ねェよ…。」
「ダメっ、」
自分でも分かるほど、私は頼りなく土方さんの胸を押した。
土方さんは名残惜しそうに唇を離す。荒く乱れた息が、静かな空間に響いた。
「…紅涙、」
目を細め、私の頬を撫でる。
「俺は…、…紅涙が好きなんだ。」
「土方さん…」
「…思い出せよ、バカ。」