旅立ち 3

やりたいコト

俺は、どちらかと言えば変化を望まない方だ。
平凡な日が続くなら、それが一生続けばいいと思う。あえて何か新しい風を吹かせることはなく、たまにやわらかな風が吹くだけで十分。だが紅涙は…違ったらしい。

ある日のこと、

「あの…ちょっといいですか?」

傍の机から、紅涙は言いづらそうに声を掛けてきた。

「どうした?」
「はい、あの…、……その…」

口ごもる様子は珍しく、俺は手を止めて紅涙の方を見た。
紅涙はうつむき、余計に言葉を詰まらせる。一体なんだ…?

「何かあったのか。」

少しの間があって、顔を上げる。休暇希望か?それとも賃上げ交渉か?短い沈黙の間に俺はいろんな予想をした。が、紅涙の言葉は、

「薩摩に…行こうと思います。」
「?……さつ、ま?」

俺の予想を遥かに越えてきた。
それもなぜか目に涙を溜めている。さつま…、薩摩?

「薩摩…だと?」
「やりたいことが……あるんです。」
「薩摩でか。」

紅涙が頷く。そのせいで、溜めきれなくなった涙が一粒、手元の書類に落ちた。

「薩摩に…敏腕で有名な補佐官がいるそうなんです…。それを近藤さんに言ったら、機会を作ってくれて…」
「……。」
「私…、そこで…勉強したいんです。」

うつむく視線はどこを見るわけでもなく、

「もっともっと…勉強、したいんです…。」

その目から、また涙をこぼす。正直、俺には理解できなかった。

薩摩で勉強?今のままじゃダメなのか?お前は充分やってる。俺は今のお前でいい。それじゃあダメなのか?誰かに余計なことを吹き込まれたせいか?
自分が行くと決めたなら、なぜお前は今泣いているんだ?

「……、」

とめたい。行くなって、引きとめちまいてェ。
ずっと傍にいろよって……言っちまいてェ。

「……紅涙、」

…だが、

「……そうだったのか。」

言えるわけもねェ。
お前の成長を望まないような、前へ進もうとする志を折っちまうようなことは……出来ない。
『寂しい』なんて女々しい言葉も、今なら言えそうな気がするんだがな…。

「ごめんなさい…っ。」
「……謝んなよ。」
「土方さんがここで働かせてくれたのに、勝手に、こんなこと言って…」
「……、」

…そうだな。答えを出す前に、俺に一声欲しかった。でもそれが紅涙の考えだったんだろう?俺に相談すると、俺の意見に流されちまうから…あえて言わなかったんだよな。

「…俺のことは気にしなくていい。」
「っ…、……。」

紅涙が唇を噛む。涙がいくつも零れた。

「だが一つだけ、確認させてくれ。」
「…?」
「行くと決めたのは、確かに紅涙の意思なんだな?誰かに吹き込まれたわけじゃ――」
「っ違います!」

俺の声にかぶせて、紅涙は力強く「私がっ」と話す。

「私がっ…これからのことを考えて、っ…決めたことです…っ。」
「…そうか。」

ならいい。なら……なおさら俺は、

「…いいんじゃねェか?」

止められねェよ。

「行って来いよ、薩摩。」
「っ…土方さん……、」

これは紅涙の人生だ。これは、紅涙の望みだ。

「……で?……発つのはいつなんだよ。」
「…四月…、十八日です…。」
「四月か…。」

受け入れなければ。気の利いた言葉を、背中を押すような言葉を…掛けてやらねェ。

「…向こうでも、頑張れよ。」
「土方さん…っ、」

鼻がツンとして、何かが込み上げるのを感じた。
涙なんてもんじゃねェ。断じて…そうじゃねェ。

「ありがとうっ…ございますっ!」

紅涙は机の上でギュッと手を握り、小さく頭を下げた。その時の俺が、どんな顔をしてやれたのかは……覚えてない。

「手紙って、どう書きゃいいんだ…?」

いつまで経っても筆は進まない。
お前の寂しさと、俺の寂しさ。それを埋められる文になればいいと思ってる。…だが、

「どうしたもんかな…。」

筆はなかなか進まず、時計の針ばかり進んでいった。

にいどめ