時間数字14

屋上の風+映る心+言えない言葉 

「…、」

私は土方さんの後ろに立った。
風が煎餅の匂いを運ぶ。

「辛ェ…。」
「…、」
「辛すぎて…、涙出てきやがった。」

この声を、この光景を二度と繰り返さないよう…これまでやり直してきた。

「……ごめんなさい。」

何も…変えられなかったけど。

「…ごめんなさい、…土方さん。」

土方さんが手にしなかった幸せを、ようやく掴ませてあげられるところだったのに…

「私…っ、出来なかったっ…!」
「…。」

結局いたずらに、時をまさぐっただけ。
苦痛を繰り返し与えるだけになった。

「ごめんなさいっ…、」

今感じている悲しみは、ここに立つ土方さんにとって初めてのことだとしても……私は、覚えている。だから、

「何も出来なくて…っごめんなさい…!」

謝りたい。

「ごめんなさい…っ!」

何度でも……謝りたい。

「……いや、」

土方さんが私に背を向けたまま、身じろぎした。クシャッと煎餅袋が音を鳴らす。

「…こっちこそ悪かった。」

目をこするような仕草をして、

「お前には…世話を掛けたな。」
「…え?」
「悪かった。」

深呼吸したのか、大きく肩を揺らした。
煎餅袋を左手に握ると、煙草を取り出し火をつける。
たちまち煙は風に流され、それを目で追うように土方さんは再び大きく息を吐いた。

「なんつーか、…疲れたよな。」
「…、」
「お前も早く屯所に戻って休めよ。」
「……、」

…私は、

「…土方さん、」
「ん?」

私は…土方さんに泣ける場所すら作ってあげられない。
それどころか、私がいるだけでこうしてまた感情を押し殺し、己の心を誤魔化さなければいけなくなっている。そんなこと…させたくないのに。

「……追加の煎餅、置いておきます。」

私は坂田さんから貰った煎餅を、土方さんの傍に置いた。

「土方さんは…ここで少し休憩してください。ここには仕事もなければ、邪魔をする人もいませんから。誰も来ないよう、外で見張っておきます。」

土方さんに背を向けた。
今土方さんに必要なのは、整理をする時間。ミツバさんを想い、自分の心に正直になる時間だ。

「…失礼します。」
「……待て。」
「…、」

足を止める。

「…お前も、食っていけよ。」

カサカサと音がした。振り返ると、土方さんが咥え煙草で煎餅袋を拾い上げている。

「こんなにあるんだ、一枚くらい食っていけ。」
「でも…」
「俺だけじゃ食いきれねェから。」
「…、」
「いいだろ?一枚くらい。」
「……、…はい。」

『一人になりたくない』
そういうことなのだろう。
土方さんがいいなら、構わない。私は隣に並んだ。

「ん。」

先程の煎餅袋を一つ手渡される。今すぐ食えと言われている気がして、袋から真っ赤な煎餅を一枚取り出した。

「…いただきます。」

口に入れる。

「辛っ…、」
「だよな。」

土方さんが笑う。

「なんでこんなもん好きなんだか。」

煙草に口をつけ、空を見上げた。

「…ふぅ、」

吐き出した煙が風に流される。ゆるく伸びて、霞みがかって消えていった。

「…人が死ぬってのは……いつまで経っても慣れねェもんだな。」
「…そうですね。」
「何十人と斬ってきた身で口にすることじゃねェが…、ほんと…慣れやしねェ。何をどうしても、もう二度と会うことがないと考えると…妙な気持ちになっちまう。」

…うん。

「わかる気がします、…その気持ち。」

私も空を見上げた。

「たぶんそれは…、その人がいないのに、これから先も続いていく自分の人生が信じられなくて…ゾッとしてるんですよ。いることが…あまりに当たり前の人だったから。」

よく『心に穴が空く』と言うけれど、実際はそんな程度では済まない。
寝て、起きて。次の日を迎えた時に初めて気付くことがある。

『私はあの人がいない毎日を、これから何十年と続けていかなければならないのか』

その現実を…未来を考える度、思考が真っ暗になる。ずっと……ずっと。

「そういうものだって、頭では分かっていても……そう簡単に受け入れられるものじゃありませんよね。」
「……ああ。」

闇から抜け出す鍵は、おそらく時間なのだろう。
でも今は、その時間ですら鍵になるとは思えない。誰も…自分自身でさえも、この闇を晴らすことは出来ない。
…そう感じているんでしょう?土方さん。

「…俺はアイツに…、…散々な態度をとってきた。今さら合わせる顔もないし、最期だからと勝手な覚悟で会う気もない。」

…それでもあなたは病院にいる。
私が何度となく時間を戻して流れを変えても、必ずここに立っている。

「アイツの婚約者が攘夷に繋がりがあると分かっても、俺は自分に出来ることをするだけだと斬り捨てた。」

『惚れた女にゃ、幸せになってほしいだけだ』

「…それも全て、ミツバさんのためじゃないですか。」
「そんな良いもんじゃねーよ。…今となっては、余計なことをしたんじゃねェかとさえ思ってる。」
「…どういう意味ですか?」
「…長くねェ命。裏を知っていたとしても…黙ってアイツの望む幸せを見せてやった方が良かったんじゃねェかってな。」

土方さんは懐から灰皿を取り出し、煙草の火を消した。

「俺はアイツの最期の幸せすらも…奪っちまったんだよ。」
「っ、それは違います!!」
「…、」
「あ…、違うと……思います。」

驚く土方さんの顔に、声量を反省した。

「その…ミツバさんは、喜んでいたと思います。」
「喜ぶ?何に。」
「自分のために動いてくれた…土方さんに。」
「…アイツは知らねェよ。」
「いえ、気付いていたはずです。沖田君からも伝わるものはあったでしょうし…何より、勘の鋭そうな人ですから。」
「話したのか?」
「い、え…その……なんとなく。」
「適当だな。」

土方さんはフッと笑い、

「まァ…あながち間違ってねェけど。」

再び空を見上げた。
なんでもないような顔をしていても、ひしひしと悲しみが伝わってくる。

「…。」

いっそ、泣いてくれたらいいのに。
そうしたら私が……、…いや、今その役目をしていいのは、私じゃない。今の私に出来るのは、

「土方さんが変わっていなかったことにも…喜んでいたと思いますよ。」

いなくなった人の話を、一緒にしてあげることくらいしかない。

「…フッ。俺がガキの頃のままだって言いてェのか?」
「あっ、そっ、そういうわけではなくてっ」
「まァいい。」

土方さんが弱く笑う。その視線の先には、きっとミツバさんが立っている。

「成長してねェな、…ほんと。」

優しく微笑むミツバさんが、その眼に映っている。

「…それでよかったんですよ。そのままの…土方さんで。」
「……そうか。」

土方さんは小さく頷き、息を吐いた。

「そうだと…いいな。」

無色透明の想いが空へ昇る。
いずれやわらかな風に抱かれ、溶けるのだろう。ゆっくり……長い月日をかけて。
…これから、たまに聞いてみようかな。ミツバさんと土方さんの話。おそらく話してくれないだろうけど、もしかしたら今までよりは……

「それはそうと、紅涙。」
「はい?」

土方さんが私の手元を見る。

「なんでその煎餅を持ってんだ?」
「え?ああ…ええっと…坂田さんに貰ったんです。」
「坂田ァ~?どこで。」
「そこです。」

人差し指を伸ばして振り返る。が、

「…あれ?」

いない。

「誰もいねェじゃねーか。」
「たぶん隠れてるだけだと…。ですよね、坂田さん。」

声を掛け、先程一緒に身を潜めていた場所へ向かった。

「いますよね?…って、いない。」

やっぱりいない。

「何も言わずに帰っちゃったのかな…。」
「アイツはそういうヤツだよ。」

フンと鼻先で笑う。

「どこからともなく湧き出て、ウダウダ言いながら人の話に首突っ込んだ挙句、知らねェ間に消えやがる。そういうヤツだ。…が、」

後ろの手すりに腕を沿わせ、両腕を伸ばして凭れかかる。

「癪なことに……世話になったことも少なくねェんだよな。」
「…ふふっ。いい人ですもんね、坂田さんて。」
「『いい人』?恩でも売られたか。」
「そういうわけじゃないんですけど……アドバイスが的確で。」
「あんなヤツに相談したのか?」
「ええ…まぁ。」
「何を。」
「えーっと……」

『私…、…なんて声を掛ければいいのか…』
『何をしてあげればいいのか…』

「…コミュニケーションの取り方?」
「絶対ェいいアドバイス貰えねェだろ。」
「そんなことありませんよ?的確なアドバイスを頂いたおかげで私は――」
「ああ分かった分かった。何でもいいが、あんま真に受けんじゃねーぞ。アイツは口先だけで生きてきたようなヤツなんだからな。」
「…ふふ。」

酷い言われようだな。

「あ、土方さん。煎餅もう一枚食べますか?」
「まだいい。口の中がヒリヒリしてる。こんな大量に残ってんのによ…。」
「マヨネーズを付けると食べやすいかもしれませんね。マイルドになりそう。」
「それいいな。帰ったらマヨネーズと一緒に」
―――キィィ…

背後で錆びた音が鳴った。
二人して振り返ると、

「トシ…、」

近藤さんが立っていた。

「俺達はそろそろ屯所に戻ろうと思うんだが…」
「ああわかった。…その前にちょっといいか?話がある。」
「なんだ?」
「……紅涙、」

土方さんが私の頭にポンッと手を乗せた。

「お前は先に行ってろ。」
「えっ…でも…」
「いいから。」
「……、…はい、」

聞きたかった。
いや、一緒にいたかった。今はまだ、土方さんの傍を離れたくなくて。…そんなこと、言えるわけないけど。

「……失礼します。」

頭を下げ、足を踏み出す。
入れ違うようにして近藤さんが土方さんの元へ向かった。

「…紅涙。」
「?」

土方さんの声が聞こえ、足を止めた。
けれどそれは日常会話程度の声量で、呼び止められた気はしない。私の聞き間違いかもしれないと思いつつ、念のため振り返ろうとすると、

「ありがとな。」
「!」

お礼の言葉が、耳に届いた。
振り返ると、土方さんと目が合った。

「あ…、…、」

今のは…何のお礼?
助太刀したこと?病院に来たこと?ここで一緒にお煎餅を食べたこと?それとも……自分の気持ちを整理できたこと?

「…土方さん…、」

お礼なんて…やめてくださいよ。
ここでお礼を言われたら…土方さんと私の間にある越えられない壁を…私に埋められない穴を、また見せつけられているように感じる。

「お礼なんて…いりません。」
「…、」
「…水くさいですよ。」
「…フッ、そうか。悪かった。」
「…。」

私を気遣わなくていい。
今までみたいに…雑に扱ってくれればいい。
どうせこの先も一生上司と部下なのだから、今まで通りに楽しく過ごせる方がいいじゃないですか。

「…、」

私なら…大丈夫。
土方さんへの想いは、いつか…消える……はずだから。

「…。」

たぶん…、…きっと。

「……っ、」
「?」

私は今一度、土方さんの元へ戻った。
目の前に立ち、その顔を見上げる。

「…どうした?」
「…。」

言いたい。
自分の気持ちを、土方さんに伝えたい。
叶わなくても…知ってほしい。関係が悪くならないよう努力するから。

……ああそっか。
今なら分かる、沖田君の気持ちが。
何度時間を戻しても私を好きだと言ってくれたのは、自分の気持ちを知ってほしかったんだ。こんなにも大切に想ってること…伝えたかったんだね。

「…土方さん、」
「ん?」
「今から話すこと、…聞くだけ聞いてもらっていいですか?」
「ダメだ。」
「…、……え?」

即…答……?

「いえ、あの聞くだけでいいんで…」
「だから聞かねェって言ってんだろ。」

なっ…

「なんでですか!ひどい!」
「お前の話は後で聞く。」
「今がいいです!」
「あとでいい。」
「っっ、」

「トシ、いいじゃないか。」

あ…近藤さんの存在をすっかり忘れてた。

「早雨君の話を聞いてやれ。」
「ダメだ。後日聞く。」

『後日』!?『あと』って後日なの!?

「だから早くお前は戻れ。」

シッシッと手で払われる。

「~っ、ひどい!」
「おいトシ~、べつに話を聞くくらい…」
「いいんだよ。」
「…。」

…複雑だ。
今の今まで『雑に扱ってほしい』と思っていたけど、雑に扱われたら扱われたで複雑だ!

「じゃあ帰りますよ!」
「おう、お疲れ。」
「~っ…もう!」

結局『話は後日』と言っておきながら、屯所に戻った土方さんは多忙を極め、すっかり話すタイミングを見失った。
私も私で、三日も経てば熱も冷め、『また機会がある時でいいか』なんて思っている。脈略なく想いを伝えても、あしらわれるだけだろうし。

忙しく過ごす日々の中で、ミツバさんの葬儀も執り行われた。極めて親しい者だけで、ひっそりと。もちろんそこに私は含まれていない。

「…あれ?山崎さんも行ってなかったんですか?」
「うん。俺は武州出身じゃないからね。」

山崎さんも呼ばれなかった。
共にあの事件に関わっただけに、どことなく複雑な思いを抱くものの、

「たとえ呼ばれても、恐れ多くて行けないよ。」

山崎さんが苦笑する。

「…私が言うならまだしも、山崎さんでも恐れ多いんですか?」
「そりゃあね。あの人達が育ててきた時間に、俺が混ざれるとは思えないから。」
「……わかります。」

日頃は親しくしていても、これまで積み上げてきた時間に、あとから来た者が関われることは絶対にない。当たり前の話だけど…その不変さを妬ましく思う時もある。

「大丈夫、落ち込むことないんだよ?早雨さん。」
「へっ…?……べつに、落ち込んでませんけど。」
「そ?なら良かった。」
「…。」

思い出にヤキモチをやくなんてどうかしてる。
…でももし私も武州出身で、土方さん達とそこにいられたら……どんなに楽しかったのだろうと考えてしまう時がある。……いや、楽しくはないのかな。ミツバさんと土方さんが並ぶ姿をずっと見ていなきゃいけないんだから。

「……はぁ。」

少し想像しただけでも溜め息が出る。そんな自分の想像力が憎い。山崎さんのせいで、また余計なモヤモヤが生まれてしまった。

…しかもこのモヤモヤ。
なんと翌日まで続き、

「…失礼します。」

副長室に書類提出する時にまで、心を揺さぶってきた。

「どうした?」

こちらに背を向けたまま土方さんが問う。

「元気ねェな。」
「っい、いえ…そんなことは。」

振り返りもせずに勘づかれたことを、少し嬉しく思う。

「…あの、報告書の提出に来たんですけど。」
「ああ、そうだったな。」

土方さんは筆を置き、うんと伸びをした。

「ふぅ…。」
「…お疲れですね。」
「事後処理が手間取っててな。つっても、じきに終わる。」

そう話し、灰皿と煙草を手にこちらへ身体を捻る。が、

「うっ…」

立ち上がろうと膝を立てた状態から動かなくなった。

「どうしたんですか?」

腰を痛めたのかな。それとも足が痺れた?
そう考えて、ハッとした。
そうだ、足!怪我してたんだ!

「そのまま座っててください、土方さん!」
「いや、大丈夫だ。大丈夫なんだが、まだ万全とは言えねェようで…」
「わかりましたから、無理に動かさないでください。」

書類を手に歩み寄り、土方さんの隣に屈み込む。

「どんな具合なんですか?」
「あと二日もすれば走れるくらいには回復してる。」
「え、…これで?」
「『これで』とか言うな。」
「すみません、とにかく気をつけてくださいよ?油断して悪化したら大変なんですから。」
「そうだな。」

報告書を手渡した。
ふと、そばにあったゴミ箱に目が留まる。
あれは…ペドロ?
ゴミ箱からチラシの頭が少し見えていた。

『次の休み、予定がないなら観に行かねェか?』

あの時に約束した映画のチラシか。…今となっては完全に頓挫(とんざ)したけど。
しかし土方さん、いつの間にペドロのチラシを取りに行ってたんだろう。一緒に貰いに行った時は、時間を戻して存在しない時間になってるから……やっぱり私が市中見廻りを休んだ、あの…ミツバさんと再会した日に一人で?

「なんだ?」
「っあ、いえ…。」

ゴミ箱から目を逸らし、立ち上がる。

「それじゃあ確認、お願いします。」
「…おう。」

そこまで映画が観たかったわけじゃない。
ペドロは好きだけど、土方さんほどじゃないし。
…ただ、私は単に土方さんと行く映画を楽しみにしていた。行きたかった。それだけ…だから。

「…。」

平気。乗り越えられる。
あの日に交わした映画の約束は、記憶の沼に沈めることにした。