腰間の秋水 7

数十分後

「ん…っ…、」

紅涙にキスをした。一度したら、なかなか解放してやれなくなった。
啄ばむだけのキスなんざ、あまりにもガキすぎて…ぬるい。

「はっ…ぁ…、」

足りない。
舌を潜り込ませると、紅涙が息苦しそうに声を漏らした。それでも必死に舌を伸ばしてくる。
ああ…放さないさ。放したくはない。このまま、俺はお前を……

―――ザブッ
「ひゃっ」
「っ、!!」

打ち上げた波が俺達に掛かる。水のせいで砂までかぶり、服を汚した。

「…このままじゃ風邪ひくな。」
「私はこのままでもいいです…。」

とろんとした目で俺を見る。
…そんな顔でせがむなよ、理性が負けちまうだろ。

「バカ言ってないで早く起きろ。」

俺は紅涙に苦笑して、その身体を引き起こした。そこで自分達の汚れ具合を改めて知る。

「こりゃ酷ェな…。」
「ベチャベチャしますね。」

海水で濡れただけじゃない。濡れた部分に砂がこびり付いている。これだと車まで汚しちまう。

「やべェな…。」

このまま帰ったら、確実に何をしていたか問われる。
その場を嘘でやり過ごしても、洗濯してくれる女中には海水だと告げなければならないし、『副長の隊服が海水と泥で汚れていた』なんて言葉を隊士が小耳に挟んだら面倒なことになる。…特に総悟だった場合は。

「土方様?」
「っあ、ああ。」

どうするべきだ?服を綺麗に出来るような方法は……
そうだ、あそこに寄って帰りゃいい。

「紅涙、行くぞ。」
「え?どこに行くんですか?」
「服を綺麗に出来るとこ。」
「?」
「だが先に、」

隊服についた砂を叩きながら払う。

「落とせる汚れは落としていく。極力、車を汚したくねェからな。」
「わかりました!」

紅涙も見よう見まねで服を払った。パサパサと落ちる砂もあるが、大半は落ちない。

「まァそんなもんでいいだろ。…紅涙、」
「はい。」
「手。」

歩き出す前に、俺は紅涙に手を差し出した。

「繋いでおかねェと、また転んじまうかもしれねェだろ?」
「…ふふっ。」

嬉しそうに笑い、紅涙が俺の手を握った。互いの少しジャリっぽい手が重なる。

「私はまた転んでも構いませんよ?」
「勘弁してくれ。これ以上汚れると、さすがに車に乗れねェから。」

二人で歩き出す。
靴も砂だらけになっちまったな…。
そんなことを考えながら歩いていると、「そういえば」と紅涙が俺を見た。

「土方様、煙草はどうしたんですか?さっきまで吸っていましたよね。」
「…あ。」

言われて気付く。…俺、持ってたよな。

「たぶん落とした、転んだ時に。」
「ええ!?もうっ、駄目じゃないですか!戻って探しますよ!」
「!?…マジかよ。」
「マジです!」

紅涙が俺の手を引いて波打ち際へと歩き出す。その後ろ姿を目に入れた途端、なぜか不意に…

「…なァ、紅涙。」

儚さを感じた。消えちまいそうな…そんな脆さを紅涙から感じる。

「はい?」
「お前…、……」

勝手に消えたりするなよ?

「……。…いや、悪ィ。」

…変だな。消えるなんて、…いなくなるなんてそんなこと…あるわけねェのに。

「何でもねェ。」
「土方様…?」
「煙草、見つからないと思うぞ。きっともう波がさらっちまってる。」

砂浜を見ながら歩いた。
先ほど俺達が付けた足跡が残っている。波打ち際に近付くほど足跡は削られ、二人分の足跡が一人分になり、一人分の足跡が…

「…大丈夫なんですか?」

紅涙が足を止めた。

「土方様、なんだか少し顔色が優れませんよ?」

そういうのは鋭いよな、お前。

「なんでもねェって。それより煙草を探さねェと。」
「煙草よりも土方様です!」

繋いだ手をギュッと握る。

「本当になんでもありませんか?もし土方様に何かあったら、私…」
「大丈夫だ。」

目を見て頷いた。

「心配すんな。なんでもない。」
「……わかりました。」

紅涙が渋々頷く。

「私に出来ることがあれば言ってくださいね。」
「ああ、…そうする。」

愛しい。
そう純粋に思った気持ちを、俺は海の空気と一緒に吸い込んだ。
結局、落とした煙草は見つからず。
紅涙がうるさいので、二人で海に「ごめんなさい」と謝罪して車へ向かった。今度は俺が手を引いて歩く。サリサリと足音を立てながら、砂浜を二人で。

「…風呂、入って帰るか?」

前を向いたまま、ぶっきらぼうに声を掛けた。

「お風呂…ですか?」
「ああ。……嫌なら、べつにいいんだ。服を…綺麗にするだけでも。」

いやべつに、他意はないから。
今から行くところが真選組でも世話になってる旅館で、風呂も入れるし、なんだったら泊まれる…場所だから聞いただけで…。
俺は…紅涙を大事にしたいと……思ってるから。

「……、」

紅涙からの返事がない。
警戒されたか…?
振り返ろうと足を止めかけた時、手をキュッと握られた。

「入ります、入ってみます。」

『入ってみる』?そこまで気合いがいるのか?
…だがそうか、いいのか。…ヤバいな、なんか……自分から言っておきながら意識しちまう。

「お風呂に入ると綺麗になるんですよね?」
「?…そうだな。」
「錆びちゃったりしないかな…。」
「錆びる?何が。」
「あっいえ、なんでもありません。」

紅涙が小さな声で「ドキドキする…」と言った。俺はそれを聞き逃さなかったが、「…俺も」なんて言葉は返せなかった。

まだ明るい陽に照らされながら、五分程で目的の旅館に到着する。前に停車させると、血相を変えた女将が外へ飛び出してきた。

「あら!?も~、なんやの、土方はん。どないしはったん?」
「悪いが、ちょっと洗濯してもらいたくてよ。そこの海で泥だらけになっちまって。」

紅涙を降ろす。俺達の姿を見て、女将は口元を隠しながらケタケタと笑った。

「あらまぁ!えらい楽しい遊びはったんやねぇ。」
「まァな。空いてるか?」
「構いまへんよ。一部屋用意します。ゆっくりして行ってくださいな。」
「助かる。」
「せやけどパトカーで乗りつけはるから、何事か思うたわ。そちらのお嬢さんは?」

女将が紅涙を見る。紅涙は辺りを見渡していたが、視線に気付くとハッとした様子で頭を下げた。

「紅涙と申します!」
「紅涙はん、よろしゅうに。可愛らしい人やねぇ、土方はん?」
「…近藤さん達には伏せといてくれ。」
「あらあら~!土方はんが独り身やなくなったって知ったら、うちの若い子らが悲しみますわぁ。」
「言ってろ。」

小さく笑う。女将は妙に嬉しそうにして、俺達を部屋まで案内してくれた。

「ほな、ごゆっくり。」

襖を閉める。

「ここ…」

紅涙が部屋を見回しながら呟いた。
そういえば部屋へ着くまでの間も終始キョロキョロしていたな…。よほど新鮮だったのか?

「こんなに広かったんですね!」
「…?知ってたのか、この旅館。」
「はい!何度か来たことがあります!」

そう…だったのか。……。

「誰と来たんだ?」
「もちろん土方様とですよ!」

俺と?
スカーフを外しながら、記憶をさかのぼる。
いや、来てないよな?女将だって初対面といった様子だったし。

「この前の宴会の時に、みんなで来たじゃないですか。」
「ああ…、…そうだけど。」

確かに、この前の宴会はこの旅館を使った。近藤さんの誕生日だったんだ。だが…その時に紅涙はいたか?…まだいなかっただろ。
…『まだ』?なら、いつならいた?いつから紅涙は俺の傍に……

「目線が違うだけで、こんなにも違う建物に見えるなんて感動です!」
「あ、ああ……、…そうだな。」

紅涙が言うんなら、いたんだろう。
俺は二人分の浴衣を取り出し、振り返った。

「紅涙、これに着替え……、…どうした?」

紅涙が表情を曇らせている。弱く眉を寄せ、何か言いたげな顔だ。

「…土方様、」
「ん?」
「……やっぱり、」

なんだ?何を言う?

「やっぱり…、…覚えていないんですね。」
「!」
「……どうしてかな。どうして私のこと――」
「紅涙、」

俺は、それ以上責められるのが恐くて、

「早く風呂、…入っちまおうぜ。」

紅涙の言葉をさえぎった。

「お前の浴衣はこれだからな。着付けが出来ないなら女将を呼べ。声、掛けておいてやる。」
「……、」

紅涙は短い沈黙の後、

「……はい。」

やんわりと微笑み、落ち着いた返事をした。

にいどめ