運命9

胸の苦しみ

『…身請けさせてくれ』

十四郎さんの声が耳に付いて離れない。
嬉しい。すごく嬉しかった。…けれど、

『…紅涙、すぐには無理だけど、金貯めたらお前のこと自由にしてやるから』
『俺と暮らそう』

銀ちゃんの顔も浮かぶ。だって私は、先に銀ちゃんと約束している。

『それまで待っててくれ』
『……うん』

指切りこそしていないものの、あれは紛れもない約束。
とは言え、身請けの約束は叶えられないことが多い。一時はそう思っていても、我が身を焦がしてまで遊女と添い遂げようとする人なんて限られている。だから私の約束も、きっと……

「…、」

自分の小指を見た。十四郎の声が響く。

『一緒にいられる時間が減っちまったなら、これから二人で取り戻しゃいい。そうだろ?』

「…。」

叶うかは…わからない。
十四郎さんや銀ちゃんに、過度の期待もしたくない。二人に荷を背負わせたくはない。どちらも…大切な人だから。

「……、」

自室へ戻った後も、私はしばらくぼんやり座り込んでいた。団子も開けず、置いたままで。

「結局…ひと口も一緒に食べられなかったな。」

早く女将さん達に届けないと。
叶うことなら本当は全て食べてしまいたいけれど、さすがに罪悪感がつきまとう。箱を開け、一人前だけを…

「いただきます。」

食べることにした。
程よく焦げた団子の上に、飴色のタレ。串を持って口の中へ入れれば、蜜のような甘さが広がった。香ばしさのある柔らかな団子。

「おいしい!」

頬がキュッと痛くなった。
十四郎が買ってきてくれた物だから、余計に美味しく感じるのかもしれない。
…もし一緒に食べていたら、もっと美味しく感じられた?

「…次は一緒に食べたいな。」

その時は、ちゃんとマヨネーズも用意して。

「ふふっ。」

あっという間に一本食べ終えてしまった。もう一本へ手を伸ばした時、

―――カサッ…
「?」

背後で何かが落ちた。開けていた窓から冷たい夜風が入ったせいだろう。見れば、机の上に置いてあった手紙が落ちていた。

「あ…、」

あれは桂さんから預かった手紙だ。今日の昼間、いつものように来て、三通の手紙を預かった。

「……早く渡したいな。」

どことなく、いつもと様子の違う雰囲気だったから。

昼間、桂さんが店に来た時、

「…紅涙、最近何か良い事でもあったか?」

酒を注ぐ私に、そんなことを尋ねた。

「どうしてですか?」
「どこか女らしさが増したように見えてな。」

女…らしさ…?

「今までの紅涙にはない色気がある。」
「色気…、」
「ああ。」

自覚がないのはもちろんのこと、思いもしない話で何度か瞬きした。

「それは……いいことですか?」
「もちろん。だが人によっては違うやもしれぬ。特に銀時は。」
「銀ちゃんが…嫌がる色気?」

よく分からない…。
悩む私を、桂さんがフッと笑った。

「誰か想い人でも出来たのではないか?」
「えっ!?」

『想い人』
その言葉に、十四郎さんの顔が浮かんだ。たちまち速くなる鼓動を感じつつ首を振る。

「いっ、いません!そんな御方…。…どうして急にそんなことを?」
「そのように見えるのだ。相手が銀時だと言うのなら泣いて喜ぶだろうが、あのボンクラを好む物好きな女性はそうおるまい。」
「そんなことは…ないと思いますけど…」
「余計な優しさはアレのためにならんぞ。…そうだ、お前からも一度強く言うてやってくれぬか?紅涙から言われれば、もう少しマシな生き方になるだろうよ。」
「ふふっ。大丈夫ですよ、きっと。」

徳利を置く。

「銀ちゃんも銀ちゃんなりに、色々と考えているでしょうし。」
「ほう?それは何か知っていそうな物言いだ。」
「いえ…、そんな気がするだけです。」
「…そうか。」

桂さんは小さく笑って、酒を飲んだ。

「お前の勘は鋭いぞ、紅涙。」
「え?」
「実のところ、アイツは最近仕事を始めたらしい。」
「っ…銀ちゃんが仕事を!?」

知らなかった…!

「俺も詳しくは知らんが、金を用立てる必要が出来たそうだ。何にせよ、ようやく真面目に働く気になったというわけだ。」
「金を…用立てる……、」

もしかして…私を身請けするために?

「銀ちゃん…。」

胸が締め付けられた。三日置きに来なくなったのは、そのせいだったんだ。

「俺はおおよそ、首が回らないくらい借金したと踏んでいたんだがな。ヤツめ、妙に生き生きした顔つきをしていた。まるで生き甲斐でも見つけたような様子だ。」
「聞かないんですか?本人に。」
「そんな野暮なことはせんよ。アイツがヤル気になったならそれだけで十分。」

桂さんは遠い目をして優しく笑う。
仲間を想う横顔は美しく、とても愛おしかった。

「しかしタイミングの悪さは神がかり的なものがあるがな。」
「え…?」
「…紅涙、」

猪口を置き、桂さんは着物の袖口から三通の手紙を取り出した。

「今日は渡してもらいたい文が少々多い。構わんか?」
「は…はい、私は構いませんけど…」
「世話をかけるな。」

珍しくここで書かずに用意してきたらしい。

「…どなたへお渡しすれば?」
「銀時と坂本、それに高杉の三人に。中身は同じだ。誰にどれを渡してくれても構わん。」
「承知しました。」

三人同時に渡すなんて初めて。もしかしていつもより大切なこと…なのかな?

「…でも、皆さんがここへいつ来られるか分かりませんよ?」
「構わん。一ヶ月程度で周知できれば十分だ。さすがに一ヶ月もあれば来るだろうて。」
「そう…ですね。…高杉…様は分かりませんけど。」
「アレは他のに増して気ままなヤツだからな。それでいい。」

桂さんが立ち上がった。左手に笠を持ち、

「いつもすまんな、紅涙。」

フッと笑う。

「いえ、私にはこんなことくらいしか出来ませんので…。」

もっと皆の力になれることがあればいいけれど…私に出来ることは多くない。

「そのような顔をするな。お前の存在に俺達は十分助けられている。ここで紅涙に会うだけで救われるものもあるのだ。むしろ俺達の方が謝らねばならんくらいに。」
「謝るなんて…」
「このようなところに閉じ込めしまって申し訳ない、紅涙。」

桂さんが頭を下げた。私は慌てて、

「っ、やめてください!」

その肩に手を当て、首を振る。桂さんは弱く眉を寄せ、心苦しそうに微笑んだ。

「感謝する。ではな。」

笠を被り、部屋を出て行った。至って特別な仕草ではなかったけれど、

「…っ、」

なぜか去り行く背中に寂しさを覚えて、

「桂さんっ…!」

私は襖を開け、廊下に飛び出した。桂さんは、

「いない……。」

既にそこになく。

「…、」

言い得ぬ寂しさを抱き、部屋へ戻った。

預かった三通の手紙は、全て綺麗に封をしている。
誰にどれを渡してもいいと言うだけあって、封筒には当然宛名などなかった。

「…早く渡せるといいな。」

高杉には会いたくはないけれど…それでも桂さんのためになら早く届けたいと思う。

最後の団子を口に入れた。
変わらず甘くて美味しい。
なのに一度立った妙な胸騒ぎが治まらず、

「……はぁ。」

私は溜め息ばかりをこぼし、夜を過ごした。