帰り待つ心+光陰矢の如し
夢路屋の前に立つ私を見つけるや否や、番頭さんが声を上げる。慌てて中へ駆け込んでいく後ろ姿が見えた。
「女将!紅涙が帰ってきたで!!」
店内の客に構いもせず、大きな声で呼びつける。
「なんやて!?紅涙が!?」
「そうや!紅涙や!」
二人して外へ駆け出てきた。
「「紅涙っ!」
「女将さん…、番頭さん…、」
「いつなん!?いつ帰ってきたの!?」
「ついさっき屯所を出て―――」
「今に決まってるやろ女将!今そこに立ってたから驚いて呼びつけたんや!」
「うるさいなぁ!アンタはちょっと黙っとき!」
「せやかて、」
「うるさい言うてるやろ!…はぁ~ほんま。ごめんやで、紅涙。帰って早々うるさァて。」
「い、いえ…。」
なんだろう…、二人の顔を見た途端、胸の中で固まっていた何かが少し解けた気がする。
「…あの…女将さん、」
「うん?」
「長い間、…ご迷惑をお掛けしました。」
「アンタ…っ、それ本気で言うてんのか!?」
「え…?」
女将さんの目が、キッとキツくなる。
「そらアカンで、紅涙。」
番頭さんも、やれやれといった様子で首を振った。
「迷惑がどうとかは禁句やろ。」
「え…でも」
「それ以上は聞きとうありまへん!」
「!」
一際大きな声で女将さんが私の声をかき消した。直後、手を振り上げる。
「っ、」
咄嗟に目を閉じた。
けれど、女将さんの手が私の身体を抱き締める。
「アンタはいつまでそんな他人様みたいな言い方してんの。」
「女将さん…」
「真選組に行く時、番頭も言うてたやろ?」
「家族やねんから、『迷惑かけた』やなんて水臭い言い方したらあかん。」
「せや。家族はいちいち『迷惑』なんて思わへん。少なくともここの揚屋はそういうもんや思うて家族言うてるんやから、『ただいま』だけでええんやで、紅涙。」
「…っ、」
張り詰めていた糸が緩むのを感じた。鼻の奥がツンとして、視界が滲む。
「よう帰ってきてくれたね。」
女将さんは私の背中を優しく撫で、
「待っとったよ。おかえり。」
そう言ってくれた。
優しい。優しくて…温かい場所。
なのに私は、
「ごめんなさい…っ、」
私はこの人達に……
「ハハっ、まだ水臭いこと言うとるで女将!」
「紅涙、うちらはアンタが元気に帰ってきてくれたことが嬉しい。それだけなんよ。」
「おかえり、紅涙!」
「おかえり。」
「…、」
『ただいま』
たったそれだけの四文字が、声に出来ない。
私は謝罪も込めて、再び頭を下げた。
「…女将さん、」
「なんや?」
「少し…お聞きしたいことがあるんですが。」
「そない改まらんでも、なんでも聞き。」
「……私がいない間に…銀ちゃん達は来ましたか?」
「いや?一回も来てへんよ。」
「え…、……一度も?」
「一度もや。」
「私が連行された日も…来ていませんか?」
「来てへん。…なんやの、約束してたんか?」
「い、いえ…、…。」
私が連行された日、銀ちゃんは私を夢路屋に迎えに来ると約束していた。
『じゃあ夕方に迎えに来るから』
……でも、
『このまま捨ておきゃいいものを…銀時の野郎が『どうしても取り返す』とうるせェから出て来てやったんだ』
高杉は、私が夢路屋にいないことを知っていた。真選組に連行されて、捕らえられていることを知っていた。
あれは、適当な作り話だったのかもしれない。
もしくは女将さんが嘘をついているか……、…何のために?
「…女将さんは、銀ちゃんの居場所をご存知ですか?」
「知りまへんな。あの子らも一応お客様やよって、必要以上な情報は聞かんようしてるさかい。」
「そう…ですよね。」
「なんで知りたいんや?」
「……会いたくて。」
「じきに来はるやろ。待っとったらえぇんちゃう?いつもみたいに。」
「それだと…いつになるか分からないから……」
「急ぎの用事なんか?」
「はい…、…。」
出来るだけ、早く会いたい。
会って、謝って、…終わりにしたい。
そうしないと私はまた、だらだらと夢路屋でお世話になる。お荷物になる。……もう、誰かの人生の邪魔をしたくない。
「…そうか。わかった、紅涙。ちょっとおいで。」
「え?」
「アンタに見せなあかんもんがある。」
「そこ座り。」
女将さんの部屋。
あまり入る機会のない部屋で、余計に緊張感が増す。
「これなんやけど、」
女将さんは戸棚から白い封筒を取り出し、ふぅと浅く溜め息を吐いた。そしてそれを私に差し出す。
「まさか見せなあかんようなると思わんかったわ。」
「?」
「ほんまに言う通りになってしもうて…。」
「あの…これは?」
「手紙やて聞いてる。」
「!」
私宛の…手紙?
「開けて見なさいな。うちは預かっただけで、中身は知らんさかい。」
「…、」
手にした封筒は、ただただ白い。
差出人もなければ宛名もない。裏返しても、真っ白な封筒だった。
「…よう分かってはるのになぁ。なんであかんのやろか。」
「え?」
「ほんま…生きづらい街やねぇ、江戸いうんは。」
女将さんは私の手元にある封筒を見ながら、頬に手を当てて再び溜め息を吐いた。
「大丈夫…ですか?」
「うちは平気や。それより、ほら。それ開けて読んで。」
顎で差され、封筒を見る。
私宛の手紙。
宛名も差出人もない手紙。
女将さんに預けることが出来る、白い手紙。
「…。」
私はそっと封筒を開けた。
思えば、封筒にも見覚えがある。
私が何度も受け渡し、手に…目にしていた便箋だ。
―――紅涙へ
思い詰めてるんじゃねェかと思い、女将に手紙を託した。
俺達は何も問題ない。誰も捕まってねェし、そんなヘマしねーよ。だから気にすんな。
…つっても、そうはいかねェ性格だわな。
どうしても俺達に詫びたい、償いたいと毎日つまんねェことを考えちまうようなら、次に会った時に奢れ。
そんなことかと舐めんなよ?すげェ呑むから!
そのためにも、そこで金でも稼いどけよ。
嫌なら夢路屋を出て自由に暮らせ。
テメェの人生だ。俺達に縛られず、好きなように生きりゃいい。
いいな?今この瞬間から、お前の人生は二択。
そこで金を稼ぐか、そこから出て自由に暮らすかだ。
他の選択肢なんて考えるなよ。考えたら承知しねェぞ。
申し訳ないと思うなら生きろ。
今まで共に過ごしてきた時間を無下にしないよう生きろ。
「……銀ちゃん…。」
無意識に声が出た。
これは銀ちゃんからの手紙だ。紛れもなく、銀ちゃんが書いている。
「…紅涙、あの子は何て?」
「……『見張ってる』って。『次に会った時は奢れ』って…、…。」
「そう…、…あの子らしい手紙やねぇ。」
女将さんは小さく笑って、
「ほんなら、せぇらい稼がなな!」
私の肩を叩く。
「…、」
「心配しぃな、うちの下で働いたらすぐ貯まる。堂々と銀時らに奢ったれるで。」
「女将さん…」
「あら、なんやの。それはウンザリ言う顔か?」
「ちっ違います!……でも、またお世話になるなんて」
「『デモ』も『スト』もあらしまへん。行く先ないんやったら、ここで働いてくれた方がうちも助かるんやから。目的出来たら、いつでも出て行ったらええ。な?」
ニッと笑い、
「ここで働き、紅涙。」
私に頷いて見せた。
…優しい。優しくて……温かい。
「っ、女将さん…っ…」
手紙を握り締め、頭を下げる。
「ありがとうございます…っ!」
「そないなお礼より聞かせてもらいたい言葉あるんやけど?」
「…え?」
「おかえり、紅涙。」
「あ…、…、」
……銀ちゃん、私…、……、
「…ただいまです、…女将さん。」
私、ここで待つよ。
またここで皆に会える日を待つ。それまで、
「あの、女将さん。」
「うん?」
ただのお荷物にならないよう、一生懸命働く。
「え!?なんでやの…。うちの仕事だけやったらアカン?」
「いっいえ、そんなことはないんですけど…もっとお店に役立つことをしたいなと思って。」
「その気持ちは有難いけど…アンタは店先に出さへん約束やからなぁ。」
「…あの約束は忘れてください。」
「そないなこと言うても、あの子らが―――」
「これまでとは、…もう違いますから。」
「『違う』?何か変わったん?」
「私は…、…もう銀ちゃん達の仲間ではありません。」
これまでも仲間だと思ってくれていたかは分からないけれど、今回の件でまた少し、私と銀ちゃん達の間に距離が出来たのは確か。
「…だから、」
女将さんに頭を下げる。
「よろしくお願いします。」
「せやけどなぁ……、…。」
女将さんは少し思案した後、
「せやわ!」
ポンと手を打った。
「わかりました。決まりというのは…?」
「それはな、」
その日から三年。
「おかえりなさいませ、先生。」
「紅涙、今日も頼むよ。」
「こちらこそ。」
私は女将さんに言われた決まりを守り、夢路屋で遊女をしている。
「今日は随分とお疲れではありませんか?」
「まー、ちょっと。…よく分かるな。」
「ふふっ、もう三年のお付き合いになりますもの。」
この人は私が遊女として店に出た一人目のお客様。
ずっと以前から夢路屋に通っている常連客様であり、この界隈を遊び尽くしている人。
『お客様がどんだけ求めてきはっても、絶対に脱いだらあかん。酒と会話だけで楽しませる遊女として店に出なさい』
『でも…それだとお客様から不満が出ませんか?』
『心配せんでも文句言うような客は回さへんよ。太客は遊女との駆け引きを楽しみに来はるからね。せぇらい焦らして遊んでやったらよろしいわ』
『じゃあ私は女将さんに引き合わせてもらう形でお客様を…?』
『なんやの、不満?』
『いっいえ、とんでもないです。だけど…その、自分でお客様を見つけず、甘えていいのかなと…』
『はぁ~、まだそんなこと言うてる。あのな、紅涙。よう考えてみ?そもそもこの条件は店側の押し付け。他やったら甘いどころか違法な労働条件で摘発され兼ねん話や。せやからアンタが引け目に感じることなんて一片もあらへん』
『…、』
『そない思うならやめとくか?遊女』
『っい、いえ、やります。やらせてください、お願いします』
『じゃあ明日の夜から早速頼むわ。ちょうどええ人が来はるさかい』
『ちょうどいい人…?』
『そこら中で遊んではる、揚屋の福の神みたいな人やよ』
福の神とはよく例えたもので、この方は高いお酒も見境なく注文する。けれど私に求めるのはお酌だけ。まさに、場を楽しみに来ている人だった。
「なーんか最近、調子悪いんだよな俺。」
「体調が?」
「いや、こう…思ってるように上手くいかなくて。」
「まぁ。」
「紅涙みたいに気の利いた綺麗な女が毎日家で出迎えてくれたら、この不運も吹き飛びそうなんだが。」
「先生ってば今日もお口がお上手。」
袖で口元を隠し、小さく笑う。
お客様は機嫌良く猪口を片手で持つと、顔を左右に振った。
「いやいや、本気だぞ?俺にはもうお前しかいないんだ。」
これはお客様の定番文句。
現にこの御方は、向かいの揚屋の遊女に一番貢いでいることを知っている。
「私だけ?」
「ああ。将来のこともずっと考えてる。だから真剣に」
「真剣に、何です?」
グッと顔を寄せてみた。
「うっ」
「…先生、本当に私だけを真剣に考えてくださってる?」
「あ、ああ。当たり前だろ?」
お客様はゴクりと喉を鳴らし、猪口を置いた。
「はい、なんでしょう。」
「俺はお前を…、っ、お前を身請けしたいと本気で思ってる!」
「身請け…、…」
「愛してるんだ!」
「…あら…、……嬉しい。」
「なんだよそれ!もっと心で受け止めてくれ!」
私の今も、あの声に縛られている。
あの言葉でたくさん泣いたのに…今も、拠り所にしている。
「聞いてるのか、紅涙!」
「っ!」
ガッと肩を掴まれ、少し驚いた。
めり込む指の力が強い。
「せ、先生…?」
こんなに余裕のない表情は、これまで見たことがなかった。
「どうって…、とても大切な御方です。先生のおかげで今の私がいますし、嫌気もささず三年もお付き合いくださって…」
「俺のことは愛してるのか!?」
「…、」
「…ひどいです、先生。」
「!」
肩に乗せられた手に、私は自分の手を重ねた。
「これまでの三年、ずっとそうやって私に疑いを持ちながら一緒に過ごしていらしてたんですか?」
「えっ、いや、そうじゃなくて…」
「私は先生と同じ気持ちであるとばかり……っ、」
「ああっ…。すまない、紅涙。同じだ。俺も同じ気持ちだ!」
肩の手がゆるむ。
しかしその手は私の頬を撫でた。
「じゃあ今夜、想いを形にしてもいいな?」
「…え?」
「今夜泊まって行く。」
「っ…、」
「愛してるよ、紅涙…」
唇が近づいてくる。
身を引きそうになったところを、なんとか耐えた。
これを拒むと、きっと二度と来てくれない。
揚屋に馴染みのある人だから、他の場所で触れ回って、夢路屋の名をおとしめるかもしれない。
私のせいで何かが変わるのは……もう二度と見たくない。
「先生…、…。」
ずっと根にあるのは分かっていたけれど、私との距離は保たれていた。なのに、何か…焦るような何か出来事があったの……?
『いや、こう…思ってるように上手くいかなくて』
『いやいや、本気だぞ?俺にはもうお前しかいないんだ』
……ああ、そうか。
「…待って、先生。」
近づく唇に人差し指を押し当てて止める。
不満げに目を開けるお客様に、私は微笑んで問いかけた。
「先生が私だけにしてくださると仰るなら、この続きをしましょうね。」
「っな…、…だ、だから言ってるだろ?俺には紅涙だけだとさっきから何度も」
「それじゃあ『あざみ屋』の子は?」
「っ…」
「それに、『鶴屋』の子とはどうなってるんです?私と一緒になることは、ちゃんとお話ししてくださっているんですよね?」
「そっ…れは……」
この人が贔屓にしている遊女の名前を知らずとも、江戸の揚屋を挙げるだけで充分。それくらい遊び回っている人だから、この程度の脅しでも…
「私が先生みたいな人を独り占めするだなんて、とても怖くて出来ませんよ。」
「くっ…」
抑止力になる。
「もし本気で私を身請けしてくださるなら、喜んで夜をお付き合い致します。けれど、その辺りの遊女に話を通してからお願いしますね。」
「話なら後でする!だからっ」
「ダーメ。物事には順序があるんです。特に私達の世界では厳しいこと、よくご存知でしょう?」
「っ、」
「ご不満なら、今からでも行きます?私と一緒に。」
「ど、どこに…」
「ひとまず『あざみ屋』と『鶴屋』へ行きましょうか。」
お客様の手を掴み、立ち上がった。
「さぁ、先生。」
「っっ、」
お客様が私の手をパッと放す。
「あら、先生ぇ?」
「忘れてた!俺、この後に予定あるんだった!」
「まぁ…そうですの?」
「ああ!だからまた来るよ、紅涙。」
「ふふっ…そうですか。わかりました、またお待ちしております。」
のらりくらり。
この人に限らず、私はこうやって三年間を過ごしてきた。
女将さんが言ったように、『脱がない遊女』でも位を昇ることは出来て、いつの間にか最高位の太夫の一つ前、天神の名も得た。
「…奢れるようになってるよ、銀ちゃん。」
そう期待して、毎日店に出続けている。
いつか…その日が来る時まで。
「紅涙、」
ある日の夕刻。
女将さんが帳簿を片手に部屋へやってきた。
「今日は二十時から宴会入ってるよって。」
「宴会…ですか?」
「そうや。店ごと貸し切ってくだはったんよ。もちろん遊女も総出動で!」
すごい…、どんなお客様なんだろう。
「せやから紅涙も頼むわね。」
「え、…私も出ていいんですか?」
「もちろんや。なんやお偉いさんの誕生日らしぃて、この日はドロドロしたのは好かん言う話やから、アンタみたいな子が一番ええ思うわ。」
どうやら、場に花を添えたいだけな様子。することと言ってもお酌くらいになりそうだ。
「しかし貸し切りやなんて、ほんま助かるわ~。…まぁ気ぃつけるに越したことないけど。」
「気をつける…?」
「どこぞで目ぇつけられて、三年前みたいに連れて行かれんようにね。」
女将さんが私を見てイタズラっ子のような顔つきで笑う。私もそれに笑って返した。
「もう捕まる理由がありませんから。皆とも一度も会ってませんし。」
笑って、そう口に出来るようになった。
「そうやね。」
「はい、…。」
これが唯一、月日を感じさせる瞬間。
瞬く間に過ぎた三年でも、まぎれもなく莫大な時間が経っている。
「そしたら頼むわ、紅涙。ええお客様がおったら掴まえときなさいよ。はよぅ太夫にしてもらい。」
「ふふ、わかりました。」
笑って頷くと、女将さんは「気張っていきや」と声をかけ、部屋を出て行った。
「…、」
正直、太夫の座に興味はない。
でもこの店のために出来ることは全部したいと思う。
「……頑張ろう。」