契りの朝+歩いていく道
とても長かったような、思い返せば短かったような…それでいて、深く愛に包まれた夜だった。
「ん…、」
目を覚まし、初めて気が付く。
夜を終える前に、いつの間にか私は眠ってしまっていたらしい。
そんな朝は過去にもあったけれど…
今日は、十四郎さんと過ごした朝は、これまでにないほど満たされていた。
「…、」
私の隣が温かい。
ゆっくりと目をやれば、
「おはよ。」
十四郎さんは片肘をつき、私を見ていた。寝起きのせいか、いつもよりやわらかな表情に見える。
「…おはよう、ございます…。」
「なんだよ、まだ恥ずかしがってんのか?」
「……少し。」
本当は『かなり』。
十四郎さんが小さく笑う。
「身体の方はどうだ?無茶させちまったが…つらくはねェか?」
「だっ、大丈夫です…、」
「ならいいが、」
耳に掛かっていた十四郎さんの髪が、重力に引っ張られてサラりと流れた。
「風呂入ってこいよ。昨日そのまま寝ちまったから、気持ち悪ィだろ。」
言われればそうだった。なのに、妙に不快感がない。
「…あれ?」
ふと自分の身体を見て驚いた。
私の身体は、まるで湯浴みでもしたかのように綺麗な肌襦袢を着ている。
「もしかして、十四郎さんが…?」
「いや?紅涙が自分で。」
「えっ!?」
「覚えてないのか?ボーっとしたまま立ち上がったかと思うと、肌襦袢を取りに行くって裸のまま部屋を出て行ったぞ。」
「そ、そんな…」
「職業病だな。」
全然覚えてない…!
「……フッ、」
「……もしかして…、」
「冗談だ。」
「っ、もう!」
ククッと喉を鳴らし、十四郎さんが仰向けになる。目を閉じると、
「お前のコロコロ変わる表情は最高だな。」
そう言って笑った。光を受けた長いまつ毛が、小さな影を作っている。
「…十四郎さんって、まつ毛が長いですね。」
「なんだよ急に。」
「出会った頃から思っていたんです。お酒を飲む横顔もすごく綺麗だなって。」
「…まさか冗談返しのつもりか?褒めてどうすんだ。」
「違います、冗談なんかではなく本当に綺麗だなと思ってて。」
「普通だよ。つーか、横顔なんて褒めたのは紅涙くらいだ。」
「そうなんですか?きっとこれまで隣に付いた遊女は皆思っていたはずですよ。」
「フッ…、」
十四郎さんは仰向けのまま伸びをして、
「そんな来ねェからなァ…、遊郭は。とっつぁんの付き合いくらいだ。」
「近藤さんはあんなに慣れているのに…?」
「好きなんだよ、あの人…。…こういう…賑やかで……酒の飲める…場所が……、…、」
「…十四郎さん?」
「ん…、…。」
「…、」
…もしかして、眠い?
「…十四郎さん、お風呂は?」
「……一緒に入れるのか…?」
「なっ、違っ…、…入れませんけど、十四郎さんは入らないんですか?」
「ああ…、…俺は…風呂……、…、…すぅ…、」
は、早い…。
「…ふふっ。」
心地良さそうな寝息に小さく笑い、私はそっと立ち上がって湯浴みへ向かった。
「はぁ…、」
湯船に浸かり、ホッと息を吐く。
心が満たされて、胸がいっぱいだ。
朝起きて、隣に十四郎がいる幸せ。
遊女としてでなく、一人の私として想いを繋げることが出来た幸せ。
「身請けの話までしてくれて…」
こんなにも気分が良い朝はいつ以来だろう。すっかり景色が違って見える。まるで夢のように。
「…。」
―――ザバッ
足早に部屋へ戻る。
その廊下で、
「おうっ、紅涙!」
番頭さんに出会った。
「おはようございます。」
「おはようさん。聞いたで~、旦那の話。」
「えっ、ああ、…はい。えっと…」
一緒に過ごしたことを伝えるのが気恥しくて、口ごもる。すると、
「ほんま、ええ意味でも悪い意味でも仕事早い人やな~!」
「…え?」
仕事?仕事って…昨夜の比喩……だよね?
「ほんならアレか、紅涙は今日にでも出るっちゅうことやな?」
「……出る?」
首を傾げる。
すると番頭さんも不思議そうな顔で首を傾げた。
「違うんか?」
「え、あの…、…何の……話ですか?」
「何のって、身請けに決まってるやろ。」
「えっ!?どっどうしてその話を…」
身請けの申し出があったのは昨夜のこと。
あれから今まで誰にも会っていなかったのだから、当然、申し出があったことは誰も知らないはず。…なのに。
「もしかして……盗聴?」
「アホぬかせ!今朝早くに女将から聞いたんや。」
「女将さんから…?」
「女将も盗聴ちゃうで。朝早ぉに風呂上がりの旦那が部屋に来てな、手続きして行きはったんやて。」
「え…、…、」
手続きって…、…え?
「なんや、紅涙。知らんかったんか?てっきり二人で決めたから女将のとこへ来たんやと―――」
「ちゃうわ。」
「!?」
「おっ、女将!!」
傍の曲がり角から女将さんが出てきた。うんざりした様子で眉間に手をやり、「ほんまアンタは…」と番頭さんに溜め息を吐く。
「ペラペラいらんこと喋りよって!」
「いらんことて…、え、まさかこの話…」
「せや。今アンタが半壊させたようなもんやわ。」
「ええ~!?や、やってしもた…。旦那に何ちゅうて謝れば…!!」
「とりあえず土下座でもしてきなさい。」
部屋の方をアゴで差す。番頭さんは慌てた様子で走って行った。けれど、ふと頭によぎる。
『ああ…、…俺は…風呂……、…、…すぅ…、』
「っ、待ってください!十四郎さんは寝ているのでまだっ―――」
「紅涙、そんなけ大きい声出したら、どのみち起きはるんちゃう?」
「あっ…!」
クスクスと女将さんが笑う。
「安心しぃ。アンタが湯浴み行く前から旦那はんは起きてはる。」
「え…?」
「寝たふりしてはったんよ。」
寝たふり…?
「どうしてそんなこと…」
「あら嫌やわ、うちも人のこと言えんくらい喋り過ぎてしもた。」
自分の口元を袖で隠し、女将さんがオホホとわざとらしく笑う。
「先に部屋戻りましょか、紅涙。話はそれからや。」
「?」
宙に浮いた話のまま、私は女将さんの後に続き、先ほどまでいた部屋へ向かった。
「入りますえ。」
『ああ』
中から十四郎さんの返事が聞こえる。煙草の香りもした。
本当に起きていたらしい。
―――スッ…
女将さんが襖を開ける。
室内には、窓際で煙草を咥える十四郎さんと、その前で土下座する番頭さんがいた。部屋の布団は、いつの間にか片付けられている。
「ほんますいませんでしたァァ!!」
「べつにいいって言ってんだろ。」
「せやけど、せっかく内密に進めた手続きをこっちでぶち壊してしもうたやなんてっ…」
「…女将、コイツをどうにかしてくれ。」
「アンタは喋り過ぎや!」
―――パチンッ
「あいたッ、」
女将さんが番頭さんの頭を叩く。
「しつこぉしたら逆効果になるんが分からんのか?もうええから仕事戻りなさい。」
「へい…。…旦那、すんませんでした!」
「わかったって。」
十四郎さんが追い払うようにヒラヒラと手を振る。
番頭さんは最後に頭を大きく下げて、部屋を出て行った。
「えらいお騒がしてすみませんでしたねぇ。そしたら、」
女将さんは部屋の中央に座ると、
「始めましょか。」
十四郎さんも向かいに腰を下ろした。何が始まるんだろうと考えていると、「何してんのや」と声を掛けられる。
「早ぉアンタは旦那はんの隣に座りなさい。」
「っあ、はい、」
急いで十四郎さんの隣に座る。
十四郎さんと目が合うと、フッと微笑んでくれた。これだけで、大半の不安がどこかへ飛んでいくから不思議だ。
「それでは始めますえ。この度、土方十四郎様から申し出のあった紅涙の身請けについて。」
「!」
女将さんが懐から三つ折りの用紙を取り出した。そこには既に十四郎さんの名前と拇印がある。
「紅涙。アンタの身請けに必要なお金は今朝方、そちらの土方十四郎様から頂きました。」
「えっ!?」
十四郎さんを見る。十四郎さんは静かに頷いた。
「そういう話だっただろ?」
『だから張り合う前に身請けする。明日一番にでも言われた額を用意しよう』
「そうでしたけど…いつの間に?」
「気にするな。そこは大事じゃねェ。」
「でも…」
「話進めてもええか?」
「っあ、はい!」
女将さんの声に背筋を伸ばす。
すると既に拇印のある用紙をスッと私の方へ差し出した。傍に筆と朱肉を並べる。
「土方十四郎様の署名は頂いております。アンタが身請けに了承するなら、そこへ名前と拇印を押しなさい。」
「…わ…わかりました。」
紙を引き寄せ、筆を持った。
シンと静まり返る空気は独特なもの。
「…、」
ただ名前を書くだけの作業が、とてつもなく深刻な作業に思えた。手が自然と小刻みに震える。
「っ、」
この様を、十四郎さんは『身請けが嫌で手が震えている』と勘違いしないだろうか。早く…早く書いてしまわないと……
「…紅涙、」
「ッ、ちっ違うんです!これはそのっ、緊張して手がっ…」
「わかってる。」
十四郎さんは私の手を取り、ギュッと握った。
「落ち着け。ゆっくりでいいから。」
「……、…はい。」
「じゃあ深呼吸。」
言われた通りに大きく息を吸い、吐き出す。十四郎さんを見ると、「止まったな」と小さく笑った。
確かに、手の震えは止まった。けれど心臓は先程より高鳴っている。私はもう一度深呼吸をしてから筆を取り、
「…、」
十四郎さんの隣に自分の名前を書いた。
朱肉に親指を付け、名前の下にギュッと押し込む。
「…できました。」
女将さんが用紙を手に取り、確認する。静かに頷くと、
「はい、確かに。そしたらこれで完了とさせてもらいます。」
用紙を三つ折りにして、再び懐へ入れた。
「…これで…」
これで、本当に私は……
「今この瞬間からアンタは夢路屋の天神やなくなった。旦那はんと生きていくただの紅涙やで。」
十四郎さんと…生きていく……
「改めてよろしくな、紅涙。」
「っ…は、はい!」
嬉しい…、っ嬉しい嬉しい嬉しいっ!
「せやけど、天神の身請けや言うのに簡易的なもんになってしもて申し訳ないねぇ。」
「いえそんな…」
「俺が今日済ませたいと無理を言ったせいだ。女将にも朝早くから手間を掛けさせて悪かった。」
「構いまへんよ。うちらも早ぉ旦那に紅涙を身請けしてもらいたかったよってに。」
「え…」
そう…なの?
「どうだかな。」
「嫌やわ、ほんまでっせ?なんやかんやありましたけど、その辺を遊び回ってるただの金持ちより何百倍も信用できますさかい、紅涙を任せるなら旦那はんしかおらんてずっと言うてましたんよ。」
女将さん…。
「まぁそういうことですから、」
女将さんが膝を打って立ち上がる。
「紅涙、アンタは早ぉ荷物をまとめなさい。言うても当面そのままにしとくから、必要なもんは後日取りに来たらええわ。」
「ありがとうございます。」
「ほな、うちは仕事戻りますよって。」
立ち去るのかと思えば、女将さんはおもむろにこちらへ向かって手を差し出した。そして、
―――ポンポン…
「!」
軽く、私の頭を撫でる。
「幸せになるんやで、紅涙。」
「っ…はいっ!ありがとうございました!」
「旦那はん。この子のこと、よろしゅうお願いします。」
「任せろ。」
十四郎さんの言葉にクスッと笑い、女将さんは部屋を出て行った。
「いい揚屋だな。」
十四郎さんが言う。
私は頷き、
「本当にそう思います。」
この『居場所』に感謝した。
銀ちゃん達が作ってくれた、この『家』に。
「……幸せでした。」
色々あったけれど、皆に出逢って…ここへ導いてくれて……幸せだった。出て行く身になった今、それがよく分かる。
「…俺も、ここに負けないくらい幸せにする。」
「十四郎さん…。」
「……。」
十四郎さんが何かに耐えるように唇をグッと閉じた。それと同時に耳が真っ赤になる。
「…ふふ、」
恥ずかしさを耐えて言ってくれたらしい。たまらず、私はその胸に飛び込んだ。
「今でも充分に幸せですよ。」
「…俺はまだ与えてるつもりねェぞ。」
顔を上げると、唇に熱が灯る。
「これから覚悟しろ?」
挑発的な笑みに、身体の芯が疼いた。
頭よりも早く、身体が昨夜を思い出す。
「…十四郎さん、」
首へ手を回し、抱き締める。
「大好き……。」
「…。……部屋の片付け、あるんだろ?」
「ん…、…そうですね。」
身を引く。
すると腕を掴まれ、止められた。
「だからやらねェとは言ってねェ。」
「え、」
「軽くするって話だ。」
「軽く…?」
「する。」
「……ふふっ。」
私達はまだしばらく、その部屋で過ごすことにした。