忘却桜13

走り続けること+鏡に映る気持ち

栗子さんの指導は、翌日から本格的に始まった。

落とし込むのは1日に2業務くらいと考えていたけど、思っていたよりも覚えるスピードが早くて…

「出来ました!確認をお願いしまする。」
「はい。…、……うん、完璧です。」
「やったでございまする!あと、こちらの文書にある内容なのですが―――」

勘も良いし、よく気付きもある。
新しい業務を3つ4つと増えても、ミスなくこなしてくれた。

その有能さを体感しているのは私だけでなく。
あの土方さんですら、一言も文句を言っていないらしい。
…『らしい』というのは、

「本日の指導報告は以上となります。」
「お疲れ。」
「…、」

あの日以来、私と土方さんの距離は遠くなったまま。
報告は毎日するし、書類関連の仕事も手伝っているけど、最低限の会話しか交わさなくなった。目が合うのも、一日に一度あるかないか。

「失礼します。」
「…。」

望んで作った環境とは言え、寂しさはある。
でも責められたり、無視されるようなことがないだけありがたい。
おかげで仕事にも滞りなく取り組めている。単に以前より会話が減っただけ。…それだけの話。

それでも私達に流れる空気の違いを感じ取った人は、心配してくれた。

「紅涙君、もしかしてトシとケンカしてる?」

近藤さんや、

「ちょっ…最近、副長との空気ヤバくない!?」

山崎さん。原田隊長や、斎藤隊長にまで声を掛けてもらった。
私は決まって、

「何も問題ありませんよ。」

笑顔で返す。

「ご心配いただきありがとうございます。」

頭を下げれば、大体は「それならいいけど」と引いた。
深く追求されなくて助かる。嘘は吐きたくない。
そんな生活を2ヵ月も続ければ、次第に心は鈍化し、慣れていった。

いつしか冬も終わりが見え始め、春を待つ頃合になる。
私は連日、副長室で終えられなかった書類を自室へ持ち帰っていた。皆が寝静まった夜に仕事をすると捗るので、一番好きな時間だったりする。

「…。」

今日も机に向かい、黙々と仕事していると、
―――トントントン…
静かな夜に足音が聞こえた。誰かが厠にでも行ったのだろう。
―――スッ…

「?」

今、近くの襖が開いたような…

「まだ起きてやしたか。」
「!!」

突然入り込んできた声に心臓が跳ねる。振り返れば、

「っお、沖田さん!?」

沖田さんが額にアイマスクをつけ、大きなあくびをして立っていた。

「ビッ、ビックリするじゃないですか!開けるなら先にっ」
「静かにしなせェ。夜も遅ェんだから。」
「っ…す、……すみません。」

なんとなく理不尽に思いながらも謝罪する。

「毎日こんな時間まで何やってんでさァ。夜更かしは美容の敵ですぜ。」
「ふふ、そうですね。お気遣いありがとうございます、じきに終わりますので。」

座ったまま頭を下げ、『おやすみなさい』と付け加えた。
それで立ち去るものだと思っていたけど、沖田さんはなかなか出て行かない。眠そうな目でぼんやり私を見ている。

「…まだ何か?」
「……あーらら…こりゃいけねェ。」
「?」

私の部屋へ一歩、足を踏み入れる。後ろ手に襖を閉めた。

「え?ちょっ…」
「寝ぼけちまって、自分の部屋がどこか分からなくなっちまった。」
「ええー…。」

また面倒くさいことを…。

「本当に寝ぼけてる人は自己申告しませんけどね…。」
「俺ァするタイプなんで。」

言うや否や、部屋の隅に腰を下ろし、折り畳んだままの私の布団へ背を預ける。うんと伸びをして、あくびを一つ。

「終わったら言ってくだせェ。」

アイマスクを下げた。
ここで寝る気!?

「お、沖田さん、寝るなら部屋へ戻って…」
「部屋の場所を忘れたって言ったはずですぜ。紅涙に案内してもらいてェから、仕事が終わり次第頼みまさァ。じきに終わるって話だし。」
「…。」
『じきに終わりますので』

口先だけの言葉を反省する。
実のところ、夜間の仕事に区切りを設けていない。
疲れて机に突っ伏して眠るまで続けるのが習慣になっている。
ゆっくり布団に入ってしまえば、余計なことばかり考えてしまうから。途中で電池切れになるくらい疲れて眠る方が都合いい。

「…わかりました、」

今日は叶わなさそうだけど。

「もう少し待っててください。」

机へ向き直る。
背後からいつもより間延びした沖田さんの声が聞こえた。

「出来るだけ早ァ~く頼みやすぜ。俺ァ朝一、クリーニングに出した隊服を取り戻しに行きてェんで。」
「今日出したんですか?奇遇ですね、私もです。…でもなんで取り戻しに?」
「ポケットに財布入れたまま出しちまいやして。」
「あーそれは…。気付いてくれるんじゃないですか?ま」
「思い出した以上は放っておけやせん。」
「…そうですね。」

なぜか土方さんの顔が浮かぶ。
私はゆっくりと目を閉じ、それにフタをした。

「だから早く……終わらせて…くだ…、…。」
「頑張ります。」

わかってる。
沖田さんがこうして面倒くさいことを言うのは、私の仕事を終わらせるため。早く、眠らせるため。

「……ありがとうございます。」
「…。」

返事がない。眠ってしまったんだろう。
…だけど、どうして私の習慣に気付いたの?
朝になっても消えていない灯りのせい?眩しかった…とか?

「…、」

筆を置く。
集中できなくなってしまった。

「仕事しなきゃダメなのに…。」

忙しい土方さんの力にならなきゃ……。
『…土方さんは錯覚してるだけです。誰に宛てたかも分からない手紙を、私宛てだと思い込んで…すり込んだだけ』

「ひどい言い方しちゃったな……。」

あの日から2ヶ月近く経ったけど、今でも鮮明に覚えている。
言った私がそうなのだから、言われた土方さんは昨日のことのように覚えているはずだ。傷ついて…焼き付いてるはず。

「こんなはずじゃ…なかったのに…。」

仕事も、土方さんのことも、何もかも。
上手くいかない。
薩摩で思い描いていた結果とは、大きく掛け離れている。

「……はぁ。」

自然と溜め息が出た。

「………仕事しなきゃ。」

筆を握り直し、再び書類に向き合う。
並ぶ文字をつらつらと目で追い、書いては目で追い―――

「……あれ?」

気付くと、視界から文字が消えていた。
代わりのように、窓から光が差し込んでいる。

「…寝ちゃった…。」

机に突っ伏していた身体を起こす。
こうしてまた、私の朝が始まった。
……けれど、今日は何か忘れているような……
『終わったら言ってくだせェ』

っあ…!!

「沖田さっ……、…いない。」

振り返った場所に、沖田さんの姿がない。

―――パサッ…
「?」

私の肩から何かが滑り落ちた。
隊服だ。私の上着。

「掛けてくれたのかな…。」

眠いだろうに、気を遣って…。
あとでお礼言おう。それと、眠ってしまった謝罪。

上着を手に取る。ふわっと煙草の匂いが鼻をかすめた。

「……染み付いちゃってるな。」

当然だ。毎日あの副長室で仕事してるのだから。
一応は窓を開けてくれているけど、やはりその程度ではあまり―――

「あれ?」

待って。私の隊服、昨日クリーニングに出した…よね。
となると、ここにある上着は部屋に吊るしてある予備の隊服。つまり、まだ着ていない隊服ということになる。

「じゃあなんで……」

煙草の匂いが?

「…、」

頭によぎった光景を否定した。

ありえない。土方さんがそんなこと…。
私なんかに…そんな優しさ……ありえない。

朝食の時間になり、食堂へ向かう。
入口で沖田さんを見つけた。

「沖田さん!」
「紅涙テメェ、起こせって言ったのに…」
「すみませんでした。クリーニングに出した隊服、間に合いました?」
「おかげさまでギリギリ。」

配膳の列に並ぶ。私も沖田さんの後ろに並んだ。

「結局あのまま朝を迎えたってわけですかィ。」
「すみません…。あ、上着、掛けてくれてありがとうございました。」
「上着?」

トレーを取りながら、

「なんの話でさァ。」

沖田さんが私を見る。初耳だという顔で。

「…私の肩に上着、掛けてくれました?」
「俺が?」
「はい。」
「誰の。」
「…私の。」
「…。」
「……違うんですね。」

胸が騒がしい。
ありえないと思うのに、状況はますますそちら側へ―――

「ああ、そう言えば。」
「!」
「掛けやした、上着。」
「…っ…よ、よかった…!やっぱりそうですよね!」
「…。」
「ありがとうございます、掛けてくれて!」
「…どういたしまして。」

よかった、沖田さんだった。
これで何も変わらない毎日が始まる。よかった。…よかった。

「…下手だねィ、紅涙は。」
「?」

沖田さんを見る。
沖田さんはおかずの皿をトレーに置きながら、

「確かに俺ァ、何のためらいもなく嘘が吐ける男でさァ。」

列が進む。

「いい嘘も悪い嘘も、関係なく言える。『嘘も方便』ってね。」

小鉢を取りながら、

「おばちゃん、今日も綺麗だねィ。」

厨房の女中に声を掛けた。言われた女中はカラカラと笑い、

「そう言ってくれるのはアンタくらいだよ!いつもありがとね。」

卵焼きを1切れ多く盛り付けて沖田さんへ渡す。

「だから紅涙が望む答え、いくらでも言ってやれますぜ。」
「それって…」
「ただし、」

汁物とご飯を取り、席を探しながら言葉を続ける。

「俺ァ一度吐いた嘘は、墓場まで持って行く覚悟で吐いてる。」
「…、」
「アンタも嘘を吐くなら吐き通しなせェ。じゃねーと、周りの人間を傷つけるだけになっちまいやすぜ。」
「っ…、」

耳が痛い。
沖田さんの言葉が厭に刺さった。

「総悟ォォ~っ!ここだ、ここ!」

人混みの中で、近藤さんが手を振っている。そばには土方さんの姿もあった。

「紅涙君もいるのか!こっちおいでェーッ!」
「…どうしやす?」

私を見る。

「嘘を吐き通せるなら、行く価値ありますぜ。」
「…、」

嘘を吐き通す覚悟。
たぶん私は……それがまだ出来ていない。沖田さんに指摘されて、こんなにも痛いのだから。

「……すみません。」
「わかりやした。じゃあ近藤さんには適当に理由つけとくんで。」
「…ありがとうございます。」

沖田さんが立ち去る。
私は、

「…すみません。朝ごはん、部屋に持って行っていいですか?」

自室で食べることにした。

トレーを運び、部屋に戻る。
しかし部屋の前で、

「あっ…開けられない…!」

両手が塞がって、一人では襖を開けられないことに気付いた。せめて汁物を取っていなければ開けられたのに…。

「どうしよう…。」

足で開けるか、廊下に置くか。

「廊下…。」

今日に限ってホコリっぽい。早朝から訓練してきた隊士が多く通ったせいだろう。

「…。」

…下品だけど、ここは足で開けるしかない。
トレーを持ち直し、足先をすぼめて伸ばした。その時、

―――スッ…
「!?」

襖が開く。私じゃない。横から伸びてきた手が開けてくれた。

「っありがとうござい……っ!?」

その人を見て、言葉を失った。

「入れよ。」
「っ…、…は…い。」

土方さんだ。
なんでここにいるの?食堂で近藤さんの隣にいたはずなのに。
私に用があって追いかけて来た……わけないだろうし。

「…。」
「……、」

言い得ぬ緊張感に息苦しさを感じながら部屋に入る。こんなことになら食堂で食べておけばよかった。

―――スッ…

背後で襖が閉まる。
振り返ると、土方さんは部屋の中にいた。ますます理解できない。……なんでここにいるの?

「食堂で食わねェのか。」
「っ…きょ、今日までの仕事が……残ってたので。」
「何の?」
「…。」

仕事を言い訳にしたのが間違いだった。
今日中に終えなければならない仕事などない。

「え…っと…、…、」
「…なんでもいいが、少しくらい片付けてから食えよ。」

机へ向かい、出したままになっていた書類を整えてくれる。

「…ありがとうございます。」

綺麗になった机の上にトレーを置いた。
土方さんは、そばの畳に腰を下ろす。…まだいる気だ。

「あ、の…何か私に…ご用ですか?」
「…なんでそう思う?」
「なんでって……わざわざ部屋に来て、座られたので。」
「……。」

少し間を置いた土方さんが、

「…話があって来た。」

目を伏せて頷いた。
顔つきは、どことなく険しい。
ここ数ヶ月、ろくに話さなかった人がわざわざ部屋へ来るくらいだから、余程の話題なのだと思う。一体どんな話題なのか……

「栗子についてだが、」
「っ、は、はい。」
「…、……業務の習得具合はどうだ?」

え……そんなこと?
単なる進捗状況の確認に拍子抜けする。

「変わらず…素晴らしいですよ。一度言ったこともきちんと覚えてくれてますし、最近では自分から仕事を探し出せるようになって。」
「…そうか。」
「今は私が傍にいるから都度確認を取ってくれますが、おそらくもう一人で勤務しても問題ないくらいにはなっていると思います。」
「……なら近いうちに指導期間は終了だな。」
「そう…ですね。」

モヤッとしたものが胸に湧いた。
…もしかして、私の肩を叩きに来たの?
『もうすぐいらなくなるぞ』って。『辞めてもらうことになるぞ』って…言いに来たのかな。

「…、」

大丈夫。2ヶ月前にも考えた。
『私は……クビに…』
『いやいや!俺達には紅涙君が必要だ。いくらとっつァんの頼みと言っても、右も左も分からん彼女に任せることは出来ん』

栗子さんが育った今、あれが現実になるだけ。

「…、」
「…あの、」

難しい顔をして畳を見つめる土方さんに声を掛ける。

「他に何か…気になることはありますか?」

土方さんはゆっくりと視線を上げ、私を見た。

「…話は変わるが、」
「はい。」
「……栗子の指導終了後の話が下りてきた。」
「!」

きた。やっぱり。

「それは…どういった内容で?」
「…、」

言葉を詰まらせる。そんな土方さんに、

「っ、大丈夫ですから!」

私は身を乗り出して言った。

「覚悟はしてました。栗子さんの話を受ける時も、近藤さんに聞いたくらいですし。」
「…何を。」
「『栗子さんが補佐をするということは、私はクビになるんですか』って。あの時、近藤さんは否定してくれましたけど…いずれこうなることは分かってました。」
「…紅涙、」
「だから」
「そんなつもりはない。」
「……え?」
「お前を辞めさせる気はない。」
「…で……でも栗子さんが…」
「栗子は…じきに辞める。」
「…辞める?」

あんなに副長補佐の仕事を頑張ってるのに…?

「とっつァんが、…栗子と俺を婚約させるんだとよ。」
「っ!?」
「婚約したら、今度は家のことを覚えるために補佐は辞めさせるって。」
「…、」
「予定では4月だ。」
「……。」

婚約…、

「だからお前の仕事は心配ない。これからも、……よろしく頼む。」

婚約……。

「……婚約…するんですか…?」
「…。」
「…松平長官に…言われたから……?」
「…。」
「松平長官に言われたら…なんでもするんですか?」

好きでもない人と婚約を…?
……違う、好きじゃないかどうかなんて知らない。私が勝手に決めつけてるだけで、土方さんの心の中では……

「嫌か?」
「っ…!?」

土方さんの視線が私を射抜いた。先程までと違い、真っ直ぐ鋭い眼を私に向けている。

「俺が婚約すること、紅涙は嫌なのか?」
「嫌…とか…そういう……話じゃなくて…、」
「ならどういう話だ。」
「……松平長官に言われたからって、どんなことでも従う姿勢が…理解できないなって…、…。」
「そんな風には聞こえなかったがな。」

懐へ手を入れる。煙草を取り出し、口に咥えようとしてやめた。

「どう見ても怒ってただろ、思いっきり。」
「っ、そんなことっ……、…。」
「『そんなこと』?」
「…、」

言葉が続かない。
土方さんは吸わなかった煙草を箱へ戻し、懐へ入れた。

「たとえ俺が従い続ける人生を歩もうとも、お前には関係ない話だ。」
「…。」

…それはそう…。……だけど…、……私は……、…。
私と…土方さんは……、……。

「その顔。」
「…え?」

土方さんが私の顔を覗き込んでくる。とっさに半歩下がった。

「テメェの顔を鏡で見てみろ。」

アゴで鏡台をさした。

「…、」

そっと鏡を覗く。
鏡の中の私は、弱く眉間を寄せていた。つつけば泣き出しそうな、情けない顔をして。

「その感情はどこから来てるんだろうな。」

土方さんが隣に並ぶ。鏡越しに目が合った。

「……なァ?紅涙。」
「…。」

春は……もうすぐ。
綺麗で寂しい、出逢いと別れの季節がやって来る。
あの駅前にある桜も、また美しく咲くのだろう。

……けれど、

「言ってみろ、お前の気持ち。」

けれど私は、きっとあの桜を4年前と同じ顔で見上げる。

……一人きりで。

「俺のことが好きだって、言えよ。」

この街に背を向けて、

「紅涙。」

駅へと向かう自分の姿が、想像できた。

にいどめ