忘却桜3

無くされた存在+心の距離

「だから。誰なんだよ。」

土方さんの言葉に動揺したのは、近藤さんや沖田さんも同じだった。

「寝過ぎで頭が沸いちまいやしたか。」
「面白くないぞー、トシ。」

二人はどうにか冗談にしようとする。…でも、

「隊服着てるっつーことは、うちの隊士なんだろ?」

そんなことで収まらないことは、明白だった。

「私が…分からないんですか…?」

「分からないも何も、知らねーよ。」
「っ…、」

私を見る目が……異質。

「紅涙君…、」
「『紅涙』?……名前にも覚えがねェな。」
「…、」

土方さんは……

「土方さんは私を…、…。」
「…いや、まだ決めてかかるのは早い。」

近藤さんが首を振った。沖田さんも小馬鹿にしたように笑う。

「そうですぜ、紅涙。野郎の頭が動いてねェだけに決まってらァ。」
「…。」
「トシ、落ち着いて考えてみろ。わかるだろ?」
「んなこと言われても」
「いいから黙って考えなせェ。」
「…。」

不満げに口を閉じ、土方さんが記憶を探る。
…けれど答えは同じだった。

「ねェよ、記憶に。そんな女は。」
「土方さん……、…、」

こんなこと…本当にあるんだ。

「会ったことあんのか?」
「笑わせんじゃねーや。紅涙とアンタは――」
「待て総悟。俺が怪我した時に現場で引き連れてた連中の一人とか言うなら、覚えてねェぞ。あの辺の記憶は定かじゃねェから。」
「そんな野郎共はどうでもいい!」
「違うのか?だったらいつだよ、会ったのは。」
「会ったのはっ……、……最後は4年くらい前になりまさァ。」
「4年!?…ハッ、そんなもん普通に覚えてねェだろ。」
「…、」
「つーか、誰がそいつの入隊を許可したんだ?」

怪訝な顔つきで私を指さす。

「俺が何日寝てたのか知らねェが、さすがにそれは度が過ぎるぞ。」
「トシ…、彼女は入隊して5年目だ。」
「はァ!?…どういうことだよ。」
「アンタの頭がおかしいってことでさァ。」
「…。」

私の耳には、皆の会話が単なる音として入ってきた。話を理解する余裕はない。

「局中法度を変えたのか…?」
「変えてない。」
「なら…女は取らねェ決まりだ。5年前の俺がどうかしてた。今からでも辞めさせろ。」
「テメェ…ッ」
「やめろ!!」

殴り掛かろうとした沖田さんも、止めに入った近藤さんも、腑に落ちない土方さんも、目の前で繰り広げられていることなのに、よく見えない。胸に出来た大きな黒い穴が…はばんでいる。

「総悟、気持ちは分かる。だがトシはまだ起きたばかりの病人だ。」
「知ったこっちゃねーよ。こんな寝ぼけ野郎は殴って目ェ覚まさせるくらいしねェと。」
「総悟…。」
「ったく、わかんねェ野郎だな。」

舌打ちが聞こえ、ベッドが軋む。
未だ重そうな身体を動かし、ベッドから降りようとする土方さんを見て、さすがに頭が動いた。

「何やってるんですか!?まだ立ち上がっちゃダメですよ!」

慌てて引き留めても、

「触んじゃねェ。いつまでもこんなとこにいるわけにいかねェんだよ。」

立ち上がる。

「こうしてる間にも仕事は溜まってんだ。今日中に戻らねェとそっちで過労死する。」
「それでも今は身体のことだけを考えないとっ」

伸ばした手を、

「うるせェんだよ。」
―――パシンッ
「!」

払いのけられた。

「気安く触んな。」
「っ…!」
「トシ!そんな言い方――」
「認めねェからな。」

壁に掛かっていた隊服の上着を探り、煙草を取り出す。

「5年前だろうと何だろうと、俺は真選組に女がいることなんて認めねェ。」
「土方さん…、」
「っの野郎ッ…!」
「総悟!」

近藤さんが沖田さんの肩を掴む。
その光景を土方さんは鼻先で笑い、煙草片手に病室を出て行った。

「…、」
「…紅涙君…、」
「紅涙…。」
「……、」

こんな状況なのに、涙は出なかった。
あまりに急すぎて、一瞬で悲しみを駆け抜けたのかもしれない。ただただ胸の中に出来た大きな穴だけが広がっていって…

「…大丈夫、心配ないさ。トシはあんな状態から目覚めたばかりだからな。きっと意識が混濁しているせいだ。」
「平気ですよ。」
「…、」

自分が、何か黒いものに呑み込まれてしまうのを感じた。

「私は…平気ですから。」
「紅涙君…。」

励ましてくれる言葉さえ、今は聞きたくないと思う。

「私より土方さんの身を案じてください。」

微笑んだ。
近藤さんも沖田さんも、私を見る目が痛々しい。

…わかってる。
強がりだと思われても仕方がない。でも本当に…涙を流すような気分じゃなかった。だから平気。悲しみと苦しみに圧倒されて、空虚感が……そう思わせてくれているんだと思う。

「とりあえず、先に屯所に戻りますね。」

働いていくには好都合だ。

「あの様子だと本当に今日戻ってきちゃいそうだから、持ち込んだ私物を片付けておきます。」

おそらく当面はこれまでしていた副長補佐としての業務よりも、不完全な土方さんを補う業務になる。心があると…邪魔なだけ。

「…わかった。なら総悟、お前も紅涙君と一緒に」
「いえ、一人で大丈夫です。土方さんをお願いします。」
「紅涙、」
「では。」

近藤さんの言葉も、沖田さんの言葉も遮って、病室を出た。

屯所へ戻り、土方さんの部屋へ直行する。
病院から屯所までの記憶はあまりない。

「……土方さんもこんな感じなのかな。」

忘れたのは、土方さんにとって印象が薄い事柄なのかもしれない。頭に焼き付いていないこと。実際、攘夷との争いに連れ立った隊士の顔も覚えていない様子だった。

「私も…、……。」

私のことも、日々の記憶に埋もれ、深く沈み込んだから……消えてしまったのかもしれない。

「副長だァァーッ!!」

「っっ!?」

ドタドタと廊下を走る隊士の声に、心臓が跳ねた。

「副長が帰ってきたぞォォッ!!」

聞こえてくる叫び声に、思わず時計を見る。私が戻ってから、いつの間にか2時間経っていた。

「うそ…っ、」

いくらぼんやりしていたと言っても、さすがにこれは酷い…!

「早く片付けなきゃ…!」

服や小物をまとめ、布団の上へ載せる。
襖を開け、それら一式を持って部屋から出ようとすると、

「…何やってんだ。」
「!?」

部屋の主の声がした。

「なんでお前がこの部屋にいる?」
「そ、れは…」
「つーか、その布団は何だよ。…ああ、女中だったのか?」
「っ、違います!私は…隊士です。土方さんがいない間、この部屋を預かっていました。」
「はァァ?誰がそんなこと。」
「近藤さんに…。」
「……はぁぁぁぁ。」

眉間を押さえ、大きな溜め息を吐く。

「信じらんねェ。なんでコイツに頼んでんだよ…。」
「それは…、…、」

“私と土方さんが恋仲だから”

「『それは』?」
「…、」

言いたいのに、言えなかった。
自信がなかった。
私達にある約4年という空白と、忘れ去られてしまう程度の自分の存在。加えて、今の土方さんは隊士としての私ですら認めていないのに、言ったところで……想像がつく気がして。

「……すみません、わかりません。」
「んだよ。わかんねェのに溜めんな。」
「…失礼します。」

土方さんの横を通り過ぎる。
すれ違いざま、煙草の匂いがした。

「…。」

頭の中によみがえる4年前の時間と、現状を嘆く心。
いろんなものがぶつかって、ごちゃごちゃになりそうな気持ちに目を背け、自室へ向かった。

その後しばらくして、局長室に呼ばれる。
近藤さんが、医師から聞いた話を教えてくれた。

「簡易テストをしてもらったが、やはりトシは記憶喪失のようだ。」
「そうですか…。」
「おおよそ5年という見立てになった。5年前までの記憶に健忘がある。」
「5年…、」

私と土方さんは、出逢って大体5年。

「だが今は直近のことも覚えていたり忘れていたり、かと思えば数年前の大したことのない出来事を覚えていたり…と、かなりバラつきがある。…そこで、紅涙君との出逢いを尋ねたところ、全く覚えていない様子から5年と見立てた。」

今の土方さんは、私と出逢った日の記憶がない。だから私に関わる他のことも思い出せない。…そういうことなのかな。

「部分的に記憶は抜け落ちているが、本人の体調は良さそうだし、おおむね問題ないと判断して退院させてもらった。」
「今後はどのような形になるんですか…?」
「変わらず副長の座に就かせるよ。その中で仕事に支障が出るようなら、ゆっくりする時間でも作らせようかと考えてる。」
「そうですか…、…わかりました。」
「…紅涙君。」
「…はい?」

いつの間にかうつむいていた顔を上げる。近藤さんは机の上で手を組み、

「どうする?」

そう言った。

「どうする…とは。」
「こうなった以上は…薩摩へ戻るのも手だと思う。」
「!」

薩摩に……戻る…。

「傍で見ているのはつらいだろう?トシが記憶を取り戻すまで、君が望むなら向こうへ行っていても」
「残ります。」

私が薩摩へ行ったのは、逃げ道を作るためじゃない。

「私は…土方さんの力になるために、薩摩へ行きました。ここで薩摩へ行くのは…矛盾していますから。」
「だが状況が状況なだけに…」
「真選組さえご迷惑でなければ、ここに置いてください。」

座っている場所を半歩ずらし、頭を下げた。

「お願いします。」
「紅涙君…、…もちろんだ。こちらとしては、君の存在は非常に助かる。これからつらいことも多いだろうが、俺で良ければいつでも話を聞くから。」
「…ありがとうございます。」

きっと、たくさん傷つくだろう。失せた涙も流れるくらいに。
…だけど、たとえここから遠く離れても、私はずっと土方さんを想い続ける。ならばわざわざ離れたりさせず、そばで想っている方がいい。好きな人のそばで…過ごしていたい。

「トシの記憶障害は当面の間、皆に伏せておく。」
「わかりました。」
「抜け落ちている情報についても、こちらから教えるのは控えようと思う。あの性格上、教えたところで信じないだろうし。」
「…そうですね。」
「紅涙君が副長補佐として働くのも、今しばらく待ってくれ。」
「…、…じゃあ私は何をすれば…」
「そうだな、明日はひとまず休暇として…、……明後日までに決めておくよ。」

近藤さんが笑う。
私は少し心苦しくなりながら、「わかりました」と頭を下げた。

「それでは失礼します。」

局長室を出る。
自室までの短い距離で、土方さんに会った。…けど、

「…、」
「…。」

どちらとも声を掛けず、目も合わず、ただ静かにすれ違う。
まるで見知らぬ人のように、歩いて行った。

にいどめ