忘却桜7

聞こえる声+割り切ること+突然の

『―――ろ、』

局長室から戻ってきて、どれくらいか経った頃。
微かに聞こえる音に、ゆっくりと意識が覚醒する。

『返事しろ、早雨。』
「…。」

音の出処は思っていたよりも近い。
目を開けると、それは私の部屋の前だと気付いた。

『おい。』

声の主は、土方さん。
『トシは…キミのことだけを忘れた』

「…、」

顔を見て話す自信がない。
…まだ起きなくてもいいかな。少しだけ休んで、改めて顔を出すようにし―――

『入るぞ。』
「っえ!?」

襖が開いた。

「っ、なんでっ…!」
「テメェ…、」

土方さんは唖然とする私を見て顔を引きつらせる。

「シカトするたァいい度胸じゃねーか!」
「すっ……すみません。…その、…、」

目を伏せる。

「少しだけ…休ませてもらえませんか?」
「あァ?」
「ちょっと…仕事に取り組めなくて。」
「『取り組めない』?なに甘えたこと言ってやがんだ。」
「すみません、でも」
「そんな余裕ねェって言っただろうが。提出期限の迫った書類が山ほど」
「すみません。」
「…。」

土方さんの声を遮り、正座する。

「…どうか、」

腰を折り、畳に額をつけた。

「どうか…休ませてください。」
「お前…、」
「少しだけで構いません。夜には…夜には戻ります。」

少ししたら、戻す。また土方さんが知っている私に戻す。努力する。だけど今すぐは…難しい。だから、

「お願いします。」

頭を下げたまま、返事を待った。

「…。」
「…。」
「…、」
「………ダメだ。」
「っ…、」

土方さんは、少しの休みも許してくれない。

「この忙しい時に、理由も聞かずに休ませるほど俺の心は広くねェんだよ。」
「……じゃあ、お腹が痛くて。」
「『じゃあ』?」
「っい、いえ…急に……お腹が痛くなってしまって。」

適当な嘘を並べる。もちろん、顔は伏せたままで。

「……わかった。」
「!」
「明日までの休養を認めてやる。」
「えっ、あ、ありがとうござい―――」
「ただし、」

トントントン。
畳が小さく振動する。近づく気配に顔を上げると、私を見下ろす土方さんと目が合った。

「診てもらってからだ。」
「…え?」

みて…もらう?

「何を」
―――グッ
「!?」

二の腕を掴まれる。そのまま引っ張り上げられ、慌てて膝をついた。

「なっ…何ですか!?」
「医務室に行く。」

えっ!?

「場合によっては、しばらく休ませることになるかもしれねェな。」
「まっ、待ってください!そんな大げさなものじゃっ」
「痛いんだろ?」
「い、痛いです…けど、…さっきほどじゃないというか…なんというか…。」
「治ったのか。」
「治ったかどうかと言われると…、…治ってない…ような…。」
「…。」
「…、…。」

ダメだ、言い逃れできない。…いや、

「いい加減にしろよ。」

初めから、言い逃れることなんて出来ない。

「ガキか、お前は。」

土方さんが手を離す。

「……、…そう…ですね。」

私は、自分が思っている以上に子どもだった。
向こうであれだけ学んできたというのに、ろくに中身は成長していない。

こんなことでは補佐としての実力も、フタを開ければ変わっていないのかもしれない。…4年近く費やしておきながら、

『せいぜい薩摩で身につけた実力ってやつを見せてみろ』

期待を裏切ってしまう。

「…。」

私は一体、何をするために行った?
4年を費やして何が残った?
土方さんに忘れられてまで得たものは……何だった?

「っ…、」

頭の中が弱音で溢れた。
あれだけ泣けなかったのに、こんな時に限って涙が込み上げてくる。

「……もう辞めろ。」
「…?」

土方さんの呟きに顔を上げた。目が合うなり、ギュッと眉間にシワを作る。

「本当は泣きてェくらい嫌なんだろ?俺の補佐。」
「え…」

何を……

「近藤さんのことだ。どういう理由か知らねーが、頼み込まれてこんなことさせられてんだろ。」
「!?違っ…」
「必要ねェよ。俺は忘れたままでも構やしねェ。」
「っ、」

土方さんは…

「確かにいくつか忘れた記憶があることは把握してる。だが、」

土方さんは、

「見ての通り生活に支障はない。そもそも忘れるってことは、その程度の大した記憶じゃない証拠だ。」

私が思った通りの…考え方をしていた。

「取り戻したいと思ってことなんて一度もねェよ。」

土方さんならそう考えていそうだと、勝手に想像してきた通りだった。
なんなら極論くらい悪く想像して、何が起きても受け止められるよう備えていた。
だからこういう言われ方をしても想定内……ではあったけど、

「……、」

だったけれど、

「俺としては『戻せ』と言われる方が迷惑だ。」

こんなタイミングで、心の内を聞くことになるとは思っていなかった。

「お前が無理して副長補佐を続けることはない。とっととこんなところから立ち去って、早雨は…早雨の人生を生きろ。」
「…っ、…、」

眼球にくっついていた涙が、右頬を流れる。
土方さんは私にまた一つ眉を寄せ、視線を外した。

「…近藤さんには俺から言っておく。お前は荷物の整理でもして、出て行く準備を始めてろ。」

背を向ける。立ち去ろうとした姿に、

「っま、待ってください…っ!」

慌てて声を掛けた。

「私は…っ、私は無理をして副長補佐をしているわけではありません…っ!」
「…。」

土方さんが足を止める。こちらには振り返らず、耳だけを向けて。

「私は…っ、…、」

…私は、

「土方さんと…、っ、仕事をしたいからっ…、…、」

一緒にいたいから。

「自分の意思で……っ、ここにいるんですっ!」
「……、」
「…だから……辞めません。」
「…。」
「適正がないって…使いものにならないって言われるまで…、辞めません。」

ずっと黙っていた土方さんは、

「……そうかよ。」

背中越しに一言そう言うと、部屋を出て行った。

「…、」

私達の…いや、私の期待は、見透かされている。
“いずれ忘れた記憶を取り戻してほしい。出来ることなら一日でも早くそうなってほしい”
そう望む期待を、土方さんは見透かし…拒んだ。
『俺としては『戻せ』と言われる方が迷惑だ』
もう……期待は出来ない。
『こうなった以上、薩摩へ戻るのも手だと思う』

近藤さんの声が頭に響いた。
それは“逃げ”であると傾いていた天秤が、今をもって均等になる。

……それでも、

「…ここにいる。」

まだ傍にいられるのなら。
私は……ここにいたい。

翌日。
朝食を終えて自室に戻ると、

―――スパンッ!
「紅涙君!」
「!?」

近藤さんが勢いよく入ってきた。

「び、びっくりした…、」
「すまん!快気祝いするぞ!」
「……え?」

快気…祝い?

「快気祝いだ、快気祝い!もちろんトシのな!あと、紅涙君のおかえり祝いも!」
「おかえり祝い…、」

そうだった。
真選組は…というより近藤さんは、この手のイベントを重要視している。
…今はあまりそんな気分にないけれど、

「今日は昼から合同祝賀会だァァ!」
「…、」

辞退するのは気が引けた。

「わかりました。何かお手伝いすることはありますか?」
「いやいや、紅涙君は主役の一人だから!…と言いたいところだが、」
「?」
「実は買い出しを頼みたくてな。」

懐からメモを取り出す。

「手が足りんのだ。すまんが頼まれてくれるか?」
「もちろんです。」

メモを受け取った。同時に封筒を手渡される。

「ここに金が入ってる。足りないようなら、悪いが立て替えておいてくれ。」
「わかりました。」
「助かるよ。トシはもう玄関で待たせてあるから。」
「はい……、…っえ!?」

土方さんを!?

「紅涙君だけじゃ重いと思ってトシにも頼んでおいた。じゃ、よろしく!」
「っいや、ちょっ…あ……、」

近藤さんは足早に部屋を出て行った。

「……う……嘘でしょ…?」

昨日の今日で…土方さんと買い出し?

「気まず過ぎる…。」

想像しただけで動悸が酷い。
…でも引き受けたのだから、行かないわけにはいかない。今後の仕事のためにも、気まずい空気は打破しておきたいとも思うし。

「はぁぁぁ…。」

お腹の底から息を吐き出して、

「……よし。」

私は部屋を出た。
引ける心に目をつむり、玄関へ向かう。
するとそこには、

「遅ェぞ。」
「…す、…みません。」

壁に寄り掛かって煙草を吸う土方さんがいた。
もしかしたらいないかもしれないと思ったけど、私と同じく、今後のことを考えて割り切って来たのかもしれない。

「行くぞ。」
「…はい。」

歩き出した背中の、三歩ほど後ろをついて足を進める。

「で、何を買って来いって?」

土方さんが顔を半分ほど振り返らせて言った。

「えっ…と……」

自然に振る舞う姿に少し驚きながらも、近藤さんのメモを広げる。

「お酒の調達と…おつまみですね。」
「それだけ?酒なら配達させりゃ済む話なのになんでわざわざ俺達が…。」

言われれば、宴会時のお酒は酒屋に連絡して持ってきてもらっていたはず。

「そもそも俺達が持ち帰れる量なんて知れてるだろ。」
「そうですね…。何か考えあってのことなのかもしれません。たとえば酒屋の配達が間に合わないから、先に用意できる分で始めたいとか…」
「なら買い出しに行く場所も変わってくる。」

話しながら、土方さんが電話を取り出した。何をするのかと思えば、

「もしもし?…ああそうだ。確認してェんだが、今日うちへの配達はあるか?」

酒屋に電話。さすが、仕事が早い。

「あァ?『予定はない』?」
「えっ」

なんで…?
土方さんも首を傾げる。

「…わかった。じゃあ急で悪いが、今日の昼までに酒を頼めねェか?量はいつもくらいで。…ああ。すまねェ、頼んだ。」

どうして近藤さんは酒屋に手配しなかったんだろう。

「頼んでないってよ。」

電話を切った土方さんが溜め息混じりに言った。

「そんなことありますか…?…急な企画だったんですかね。」
「だとしても、メモなんて書く前に電話できるだろ。」
「そう…ですよね。じゃあ屯所に余ってるお酒が大量にあるとか。」
「ないな。」
「祝賀会を外部に漏らしたくない…とか?」
「サボるわけじゃねェんだ。さほど後ろめたい気持ちはないはずだ。」

以前から真選組内で宴会を開く時は、各隊2名ずつ禁酒者を出す決まりになっている。もちろん通常業務を継続させるための人員。
選ばれた2名は宴会に参加出来るものの、いつでも仕事モードに切り替えられるよう心構えが必要となる。

「それ以外に考えられる理由とすれば…」
「…、」
「…、」
「ねェな。」
「ないですね。」

分からない。

「あ、もしかしたら今回は別の酒屋にお願いしてるんじゃないですか?」
「それはまァ…なくはないが。」
「もしブッキングしたら大量のお酒が届くことになりますね…。」
「そこは構わねェよ。いつも足りなくなって追加注文するくらいだから。」

相変わらず凄まじいな…。

「次はつまみだったか?」
「はい。」
「…それも腑に落ちねェ話だな。」
「…そうですね。」

料理の類は、女中が用意してくれる分で事足りるはず。
私が覚えている限り、宴会の後半は誰もがお酒を飲むばかりになって、そこまで箸は進んでいなかった。

「乾き物やお菓子が欲しいって意味でしょうか…。」
「…だろうな。」

紙に書かれた力強い近藤さんの字体を見つめ、二人で思案する。

「スーパーで適当に買い漁っていくしかねェな。」
「ですね。」

頷くと、土方さんが歩き出した。私もメモをポケットへ入れ、足を踏み出す。が、

「あっ、」

ポケットからメモが滑り落ちた。拾おうとして屈むと、

「おわッ!」
―――グシャッ

通りすがりの人に、思い切り踏みつけられてしまった。

「いきなり何だよ、危ねーじゃん!」
「す、すみません。」
「気をつけろよな!」

立ち去る背中に頭を下げる。

「何やってんだ?」

土方さんの声に顔を上げた。

「メモを落としてしまって…。」
「これか。」

拾いあげる。

「もう用は済んだから必要ねェ…だろ…、…、」
「?」

突然、難しい顔をして口を閉じる。

「土方さん?」
「……こういうこと、前にもなかったか?」
「っ!」

もしかして…

「お前が落とした紙…、…いや、書類を俺が…、…、」

もしかしてそれは…

「駅で…?」
「駅…」
「駅で私とぶつかって、落としてしまった書類を土方さんがっ」
「そう……ッい、」

突然、土方さんがこめかみを押さえた。
かと思うと、今度はカクッと力が抜けたかのように地面に膝をつく。

「土方さんっ!?」
「…大丈夫だ。」

片手で制し、立ち上がった。

「ちょっと頭が痛くなっただけだ。」
「…、」

まさか……忘れた記憶に触れて…?

「ご、ごめん…なさい…、」
「なんで早雨が謝んだよ。」
「私の……せいだと思います。」
「あァ?」
「私が…っ…思い出させようとしたから…っ、」
「関係ねェよ、ただの偶然だ。」

偶然にしては出来すぎている。
本人が望んでいないことをしたせいだ。私はそれを知っておきながら、導こうとした。……私のせいだ。

「…勝手な解釈すんなよ。」
「っ…、」

土方さんが煙草を取り出し、

「なにも俺は、思い出したくないわけじゃない。」

唇に咥え、火をつける。

「思い出さなきゃならねェ環境にし向けられるのが嫌なだけだ。それと…俺を見ていないお前の眼が気に食わねェ。」
「私の…?」
「お前の眼は、ずっとお前の記憶の中にいる俺を探してる。」
「っ…そ、れは…、…。」

否定出来なかった。
でも言葉にされると、とても…失礼なことをしていると気付く。

「俺は俺だ。昔がどうのとか言われても知らねェし、誰かのために思い出してやる気なんてサラサラない。…だが、忘れちまった記憶に触れる機会があるのなら受け入れる。それは間違いなく俺がしてきたことだから。」

土方さん…

「だからお前も、目の前にいる俺を見ろ。」

土方さんの…言う通り。

「……ごめん…なさい…、」
「俺の話を聞き入れないから謝ってんのか?」
「っそうじゃなくて…、…私の態度が…あまりに酷かったから…。」
「そこまで酷くはねェだろ。」

煙草を指に挟み、フッと笑う。

「大げさなのはお前も一緒だな。」
「…、」

私は、目の前にいる土方さんを見ていなかった。過去と比べてばかりいて、見ようともしていなかった。

土方さんが変わっていないことは…分かっていたはずなのに。

「…やっぱり土方さんは…私の好きな土方さんですね。」

出逢った時と同じ、土方さんだ。

「お前……、…。」

ポトッと指から煙草が落ちる。

「え?」
「…、」
「?」

何か変なこと…言った?
『やっぱり土方さんは私の好きな土方さんですね』
私の…好きな……、……っ!!

「っあ!ああっ違います!今の『好き』は上司としての『好き』で、尊敬しているという意味なだけで…っ!」
「……、」
「っ…、…。」

沈黙が痛い。
土方さんは『信じられない』といった顔で私を見ている。

…でも、このまま話をそらすることは出来ない。ここで必ず誤解を解きておきたい。
せっかく上司と部下として上手くやっていけそう流れになっていたのに、私の不純な気持ちがあると……
『風紀が乱れるから女は取らねェって決まりだろ』

やはり置いておけないと追い出されてしまう。
恋仲にあったことも必ず伏せておきたい。今の土方さんが過去の自分に困惑して、副長としての自信を無くしてしまうかもしれない。

「……ひ…土方さん、本当にさっきのは…そういうのじゃなくて」
「痛ェ。」
「…え?」

土方さんが胸の辺りをギュッと握り締めて呟く。

「なんだこれ…。」
「土方さん…?」
「この痛み…、…、」
「だっ、大丈夫なんですか!?」

今度は心臓が痛いの!?
視線を下げる土方さんの傍へ付き、よく分からないながらも背中を擦る。道の端へ誘導し、顔を覗き込んだ。

「胸が痛いんですか!?」
「…ああ。」
「どういう痛みですか!?ズキズキ?ジンジン!?」
「……チクチク。」
「チクチク!?」

聞き出したところで、対処法を知るよしもなく。ようやくここで救急車の存在を思い出し、私は電話を取り出した。

「大丈夫ですからね!すぐに救急車をっ」
「いい。」

土方さんの手が、電話ごと私の手を掴む。

「必要ない。」
「でもっ」
―――グッ…
「っ!?」

手を引かれ、

「ッえ!?」

土方さんの胸へ倒れ込んだ。

「っ…ひっ…ひじ…かた、さん…?」
「…。」

私の背中に、しっかりと腕が回っている。

「…?」

これは…どういう状況?抱き締められて……る?

「あっ、の…、」
「…。」

…待って。この体勢……単に一人で立つのがつらいだけじゃない?

「っもしかして、かなり具合悪いですか!?」

顔が見えるよう身体をよじった。
出来るだけ土方さんの手をずらさないように慎重に動く。

「座ります!?」
「…、…紅涙。」
「っ!?」

い、今……名前……

「土方…さん…、」
「…、」
「…。」

視線が絡んだ。……まさか。

「まさか記憶…、」
「…。」

土方さんの視線が、私の唇に落ちる。

「…、」

距離が縮んで、

「……、」

吐息が触れた。
触れてもいない唇に熱を感じる。

「…っ、」

鼻をかすめる煙草の香り。
途端に懐かしき情景が頭へ押し寄せる。
重ねたくないのに、『ああ…戻ったんだ』と心が震えていた。
『ちゃんと全部、あるべき場所に戻りまさァ』

これで、あるべき場所へ戻れる。…やっと……

―――ピピピピ…!
「「!」」

唇が触れ合う直前、着信音が響いた。土方さんの電話だ。

「…、」

けれど土方さんは電話に出ない。驚いたように目を丸くして私を見ていた。

「土方さん…?電話…」
「あ、ああ。…、」

ようやく取り出す。着信相手は酒屋のようで、支払い方法を確認する内容だった。

「それじゃあ頼む。」

電話を終えた土方さんが、

「…悪かったな。」

開口一番に謝る。

「え?」
「さっきのは……忘れてくれ。」
「!」

記憶は、戻っていなかった。

にいどめ