正しい犬の飼い方 8

Lesson 8

「紅涙ちゃん大丈夫?」
「っえ…?」

作業中、声を掛けられてハッとする。

「何だかここ数日、元気ないでしょ~。」
「あ…いえ…そんなことありませんよ?」
「そう?何かあったら遠慮なく言いなさいねぇ。手首も怪我してるんだし、私に出来る仕事なら代わるから!」
「…すみません、ありがとうございます。」

笑って礼を言い、作業に戻る。視界には、否が応でも自分の手首が目に入った。

「……、」

昨夜、土方さんに強く握られた手首。薄らと赤黒くなった箇所を隠すために包帯を巻いた。余計目立つが、あのままにしておくよりはいい。

「ああそうだわ!このあと近藤局長から話があるらしくって、女中全員、広間に集まってほしいそうよ。」
「……わかりました。」

私は口をギュッと閉じて頷く。
…いよいよだ。あの日は着実に、近付いている。
【Lesson 8】

Before you scold me for being uncooperative, obstinate, or lazy, ask yourself if something might be bothering me.
Perhaps I’m not getting the right food or I’ve been out in the sun too long or my heart is getting old and weak.

言うことをきかないとか頑固だとか、怠け者だと叱る前に
何かが私を苦しませているのではないかと考えてみてください。
食事に問題があるかもしれないし、
太陽の下で長時間いたせいかもしれない、
もしくは老いて弱っているせいかもしれません。

「いつもご苦労様であります、女中の皆さん!」

近藤局長の大きな声が広間に響く。
隣には土方さんも立っていて、近藤さんの隣で浅く頭を下げていた。

「えー、本日のご飯も大変美味しかったです!洗濯物もふっかふかでいつも有難い思いを…」
「近藤さん、話。」
「おおそうだった、ついな。」

横道にそれた近藤局長が笑いながら頭を掻く。その姿に女中からも笑いがもれた。
これから始まる重い話なんて全く予感させない、近藤局長らしい空気。

「ええっとですね、今回集まって頂いたのは他でもない、少し前から周知していた話です。」

…来た。

「しばらくの間、皆さんには屯所から出払っていただく。で、その際の仮住居が整いました!」

一部の女中が「あら~!」と嬉しそうな声を上げる。本当の理由を知らないせいだ。『春雨』のことを知っているのは、事前に土方さんから聞いていた私だけ。

「仮住居には明日から一週間以内に移動完了して頂きたいと思っとります!」
「まぁ~、随分と急ぐのね~。」
「二三日の着替えだけでいいのかしら。」

口々に話し出す女中に、近藤局長が「いえ!」と笑いながら答える。

「ご自分の荷物は出来る限り、全て持って移動してください!特に大事な物は必ず持って!」
「「ええ~!?」」
「というのも、まだいつまで出てもらうか決まっとらんのです。」

広間が驚きに包まれる。一人の女中が「そう言えば私、」と言った。

「どうして屯所を出るのか聞いてなかったわ!」
「あら、本当ね~!私も聞いてないわ。」
「そ、それについてはー…トシの方から。」

近藤局長が土方さんの方を見る。土方さんは顔色ひとつ変えず、みんなに向かって堂々と言った。

「屯所内でシロアリが発見されたためです。」

…え、シロアリ…?

「あらそれは大変ねぇ!」
「ええ。なので屯所を丸ごと調査、駆除してもらうため、ここを空に。」

…隠すんだ、『春雨』のこと。それがいいんだろうな…。本当のことを知ったら、きっとみんな、気が気じゃなくなる。

「局長さん達はその間どうするんだい?」
「と言いますと?」
「私達が仕事しなかったら、ご飯やら洗濯物が滞っちまって…」
「ああ、そのご心配なら無用!」

近藤局長が再び元気よく声を上げる。

「俺達も屯所を出るんで、その辺りはきっちり自己管理させますよ!ガッハッハ!」
「あらそうよねぇ~、局長さん達もここを出るんだものね。」
「はい!全員、皆さんと同じように!たださすがに場所までお伝えできませんが。」
「どうして言えないのかね?」
「そ、それはー……ゲフンゲフン。…トシ。」
「仮住居探しに難航しているため。なにせこの大所帯、格安で受け入れてくれるマンションなんてそう簡単に見つかりませんから。」
「そうよね~。マンション一棟くらい必要になるんじゃない?」
「やだ~、そんなお金ないわよね~!」

ケラケラと女中が笑う。同じように笑えない私は、近藤局長と土方さんが目くばして頷き合うのを見ていた。

「まァそういうわけですんで、皆さんはゆっくり疲れを癒してください!」
「戻ってきてもらう日が決まり次第、追ってこちらから連絡します。」
「そういうことならお言葉に甘えましょうかね~。」
「ちょっとした旅行気分だわ~。なんだか浮かれちゃうっ!」
「そうね~!」

楽しげに話す彼女達は、さながら修学旅行前の女子。
キャッキャと肩を叩き合う女中に近藤さんも笑う。険しい顔をして立っていた土方さんも小さく笑って、

「旅行と呼ぶには近すぎますけど、それくらいの気持ちでいてくれた方が俺達としては助かりますよ。」

そう言った。

「おやおや、仮住居は近いのかい?」
「ええ、同じ江戸ですから。もしこの機会に帰省したいという場合は帰省して頂いて構いませんよ。とりあえずは一人一部屋用意してありますから、お好きに使ってください。」
「あらまぁ!!至れり尽くせりじゃないの~!」
「いいのかしら~。なんだか悪いわ~。」
「いやいや、毎日のことを考えればまだまだ返し足りないくらいですよ!」

喜ぶ女中に、近藤局長がペコペコと頭を下げて笑った。

「それでは皆さん、移動は出来るだけ早めにお願いします!」
「「「はーい。」」」

近藤局長の隣で土方さんも頭を下げる。二人はまだ興奮冷めやらぬ場に小さく笑い、出て行った。

「荷物どうしましょうかね~。」

広間はそれからしばらく、皆が口々に相談し合う場所と化し、

「あんな風に局長さん達は言ってたけど、必要最低限の物でいいんじゃないかい?」
「だけどいつまでになるか分からないって言ってたし、やっぱり極力持って行った方がいいんじゃないかしら…。」
「持てるだけ持って行きましょうか~。足りなくなるよりいいわよきっと~。」
「そうねぇ!」

盛り上がる空気を横目に、私は一足先に広間を後にした。
…もうすぐなんだ。とうとう見て見ぬふりをしてきた日が来る。結局『覚悟』というものは掴めず、土方さんとの関係は最悪な状態に…。

「ツケが回ってきたのかな…。」

ちゃんと向き合ってこなかったツケが。

「おーい、そこのボーッと歩いてる女中。」
「…?」

声に振り返る。沖田さんが立っていた。

「自覚ありですかィ?」
「まぁ…ボーッとはしていたので。なんですか?」
「ちょっと茶に付き合ってもらいやせんか。」

お茶…?どこに付き合されるんだろう……
と思っていたけど、なんということはない。ただの縁側だった。その縁側にはお茶が二つ並べてある。

「このお茶、沖田さんが入れてくれたんですか?」
「そうですぜ。女中が全員不在だったもんで。」
「あ…すみません、ついさっきまで広間で…」
「知ってやすよ。聞いたんだろ?シロアリのこと。」
「ええ…聞きました、シロアリのこと。」

含みを持たせて復唱する。お茶を口にすると、自然と溜め息が出た。

「あれで良かったと思います。…って、なんだか上から目線ですよね。」
「構いやせんよ、そんなことはどうでも。」

沖田さんもお茶を飲む。

「…紅涙、」
「はい。」
「最近、思うんでさァ。俺と話す度、紅涙はどんどん弱くなってるんじゃないかって。」
「…弱く?」
「俺が好きだった紅涙は、もっと真っ直ぐで、気の強い女で、弱いとこもあったかもしれやせんが、それ以上の何かを持った女だった気がするんでさァ。」
「…買いかぶり過ぎですよ。」

確かに、普通よりは少し気の強い女だと思う。だから土方さんにあんな告白が出来たわけだし。
…けど、沖田さんが目をつけてくれるような『それ以上の何か』は持ちあわせていない。

「私は……初めから何も持ってませんでしたから。」
「紅涙、そうやって自分を卑下した言い方はやめなせェ。周りに『そんなことはない』って言わせたい鬱陶しい女に見える。」
「はは…ほんとですね。気を付けます。」

相変わらず真っ直ぐだなぁ、沖田さんは。清々しいほどに、真っ直ぐだ。

「…俺はこれまで、未練のないよう生きてきたつもりでさァ。」
「……?」
「でもアンタとこのまま別れたら、たぶん成仏できやせん。」
「じょ、成仏って……やめてくださいよ、変な例え。」

このタイミングで言っていい冗談じゃない。もうすぐ、決戦があるというのに…。

「紅涙、難しく考えることはありやせん。男ってのは、みんな犬みたいなものでさァ。頭と身体が直結して、たとえ口数の少ない男だろうと考えてることは大体同じ。女より余っ程わかりやすい単純な生き物ですぜ。」

まるで沖田さんは伝え残しがないよう意識してるみたいに、

「だからもっとずっと、紅涙は強気に生きてくだせェ。野郎に告白したあの時みたいに。」

私に訴えかけてくる。

「自信を持って歩いて行けば、後にはきっと何かが残る。仕事じゃねェんだから、過程を大事に生きて、楽しめばいいんですぜ。」
「過程…、」

…そうだ。
振られるかもしれないと予感しながら告白した、あの時。結果も大事だったけど、自分だけでは抱えきれなくなった想いを伝えることにも意味があった。
今だって以前と変わらず土方さんを想ってる。なのに今の私の方が、自分の気持ちを口に出来ていない。…恐れている。

好きだからこそ嫌われないように、付き合ったからこそ逃さないように。

結果が変わることばかりを恐れて、何も出来ない…ううん、何もしようとしてないんだ。そのせいで、失わずに済むものまで失いそうになっているというのに。

「ああ…そっか……、」

もっとぶつからなきゃ。
土方さんに私の気持ちが伝わるように、もっと私が行動しなきゃ。

「何か得るものがありやしたか?」

沖田さんの問いに、

「……はい。」

私はしっかりと頷き、微笑んだ。それに応えるように沖田さんがフッと笑ってお茶を飲む。

「世話が掛かりまさァ。」

鋭い沖田さんの言葉は、気付けばいつも追い風になっていた。
いつだって私の背中を押し、飛べるよう道を作ってくれる。どれだけその言葉に支えられたか分からない。

「…沖田さん、」
「ああっと。礼はお断りで。もらっても大して身になりやせんからね。」

ふふ、沖田さんらしいな。

「それより早く行きなせェ。やらなきゃならねェこと、見つかったんじゃなかったんですかィ?」
「…はい。」

立ち上がる。

「お茶、ご馳走でした。」
「へいへい。」

早く行けと、手で払われた。

「…沖田さんも、十分に気を付けてくださいね。」
「何を?」
「春雨とのこと。」
「……。」
「もし何かあったら…、…私も成仏できませんから。」
「…ならその時は二人して悪霊になりやしょう。」
「もう…。」

ニヤッと沖田さんが笑む。私は苦笑して「考えておきます」と返した。そしてその場を去る。次の目的地は当然……

「…土方さん、」

副長室だ。

「……。」
「入りますよ。」

返事がなくても障子を開ける。中にはやはり土方さんがいた。いつも通り机へ向かっている。

「土方さん、…好きです。」
「……はァ?」

振り返った。私は立て続けに、もう一度「好きです」と伝える。今度はちゃんと土方さんの目を見て。

「……薄っぺらい言葉だな。」
「…そう聞こえるなら、私の言い方が悪いんだと思います。でも、薄っぺらくなんかありません。」
「……。」

土方さんの前に座る。

「私は、土方さんが好きです。」
「……やめてくれ。」

私の言葉に呆れた様子で額に手をやる。

「俺はもう疲れた。」
「何にですか?」
「…誰かを想ったり、そいつのためを考えたりすることに。」

土方さん……。

「でもまだ一ヶ月くらいしか経ってませんよ?」
「俺にとってはそれ以上に長い時間だったんだよ。」

灰皿に置いていた煙草を口に咥える。ふぅと煙を吐き出す仕草は、本当に疲れているように見えた。

「こういうことについては、これまで必要ないから後回しにしてきた部分だったんだ。この先も、それこそ死ぬまで俺は女に惚ける気などない……つもりだった。」

「だがな、」と続ける。

「だが歳を食ったせいか、誰かを想う暇が……いや、与力が出来ちまってよ。」
「…そこに偶然、私が告白してきたと。」
「……。」

じっとりした目で土方さんが私を見る。

「お前、ほんといつも話の聞き方が浅ェよな。」
「え!?」

な、何か変な質問だった…?

「だがまァ俺は今までそうやって生きてきたし、誰かに全てを理解してもらえるとも思ってない。はなから願っちゃいねェ。無理強いしないと一緒にいられないっつうんなら、一緒になる気もねェし。」

…うん、そんな気がする。

「好きな女にはテメェらしく生きてほしい、ただそれだけだ。俺のせいで左右されるような人生を歩ませたくない。」
「土方さん…、」
「だから紅涙、お前が去ると言うんなら俺はそれでいいんだ。」

……、

「え?」
「あの夜はあんな言い方しちまって……悪かったな。あと、その手も。」

土方さんはまるで自己完結させたかのように言い終えると、話は済んだとばかりに煙草を口に咥えた。
『お前が去ると言うなら』って…、…え?なに?土方さんこそ何を聞いてたんですか。

「…土方さん、」
「なんだ?」
「私は、土方さんが好きです。」
「……、」

そう、私はあなたが好きなんです。

「でも私は…心配するなと言われても心配しちゃうし、ろくに覚悟も出来ていないような人間です。ただ、土方さんの傍を離れない自信だけはある。」
「……。」
「誰よりも一番近くにいるための努力ならしたいし、これからもずっと、土方さんを支えたいと思っています。」

けれどきっとあなたは、私の言葉通りに受け取らない。

「もしそれこそが土方さんに左右されてるって聞こえてるなら…それは違いますよ。私は…」

私は欲深いから。

「私のことも支えてほしいから……土方さんを支えたいんです。」
「紅涙…、」
「土方さんと、足りないところを補えるような…相手になりたい。」

私には、それが土方さんだから。

「…駄目、ですか?」

恐る恐る、顔色を窺った。土方さんは渋い顔をして煙を吐き出し、煙草の火を消す。この僅かな沈黙が、居た堪れなくなるほど長く感じた。

「……駄目なわけねェだろうが。」
「!」
「敵わねェよ、お前には。」

困ったように笑う。私は久しぶりに見た土方さんの笑顔に固まった。するとグッと腕を引かれて、

「わっ!」

土方さんの胸へ倒れ込む。何度も振り回された煙草の匂いが鼻をかすめた。

「…お前もつくづく見る目のない女だな。こんな面倒くさい男がいいなんてよ。」

私を抱き締め、首元に擦り寄る。土方さんの髪が肌を撫でてくすぐったい。

「そういう人を好きになっちゃったんで…どうしようもないです。」
「後で撤回するっつっても聞かねェからな。」
「さっき『お前が去ると言うんなら俺はそれでいい』って言ったのに?」
「…うるせェ。あれは手に入れる前の話だ。手に入れちまったら……話は別だ。」
「ふふ。…好きですよ、土方さん。」

言っても言っても言い足りない。好きと言う度に気持ちの隙間が埋まっていけばいいのに。
…そんな考えが、

「俺もだ。」

いつか同じになればいいなと思う。
私は土方さんの背中へ手を回した。そして、そばにある土方さんの右耳にそっと告げる。

「…だけどね、土方さん。」
「ん?」
「お忘れかもしれませんが、私は『はァ?』と言われるのが大っ嫌いですよ。」
「……。」

一瞬沈黙して、土方さんが身体を離した。

「…お前、よくこんな雰囲気で言えるな。」
「ずっと気になっていたので。いつかもう一度言わなければと思ってました。」

にっこり微笑む。土方さんはそんな私を鼻で笑って、

「はァ?知らねェし。」

そう言った。

にいどめ