正しい犬の飼い方 7

Lesson 7

確かに…、
確かに私はここ最近、仕事に時間を費やした。その面からすれば、土方さんの言う『好き勝手に忙しくした』に当てはまるかもしれない。
でも、全ては『覚悟』のため。土方さんといるためだった。
この先何があっても、…例の日が来て見送った後も、無事戻ってきた土方さんに『おかえりなさい』って一番に言える存在でいたいから。
今は仕事に取り組んで、その『覚悟』を形作っている最中だったんです。…なのに、

「もう少し…だった気がするのにな……。」

あと少し時間があれば、形になっていた気がするのに、あんな険悪な雰囲気だったら…『覚悟』以前に離れてしまう。もう一緒にいれない、って言われてしまう…。
それだけは、避けたかった。
【Lesson 7】

Remember before you hit me that l have teeth that could easily crush the bones of your hand but that I choose not to bite you.

私を叩く前に思い出して下さい、
私にはあなたの手の骨を簡単に噛み砕ける歯があるけれど、
決してあなたを噛まないようにしているということを。

「今日はまた一段と暗ェようですが?」

土方さんと険悪な空気になった夜、私は沖田さんの部屋へ向かった。嫌な記憶を、沖田さんとの他愛もない会話で上書きしたくて。

「野郎とケンカでもしやしたか。」
「…してませんよ。」

ここへは来たけど、その話をするつもりはなかった。まぁ…何があったと言わなくても、沖田さんは分かっているようだったけど。

「また覚悟がうんぬんですかィ?」
「……違います。ちょっと…土方さんの機嫌が悪かっただけで。」
「機嫌…ああ確かに。」

え…。

「沖田さんも…気付いてたんですか?」
「ブスーっとしてやすからね。隊士らの間でも、触らぬ神に祟りなしって警戒してやすぜ。」
「……。」

『こんな言い方してんのはお前にだけだ』
…私だけに態度悪くしてるとか言いながら、やっぱりみんなに当たり散らしてるんじゃないですか。

「…すみません。」
「なぜ紅涙が謝るんで?」
「私のせいで…怒ってるそうなんです。…何が原因かまでは教えてもらえませんでしたけど。」
「…へぇ。野郎がそこまで言いましたか。」

そこまでというか…、

「何も言ってくれませんよ。うるさい、出て行けって…ひどい言い方されたくらいで。」

『お前の言い訳なんて聞く暇ねェんだよ』
…思い出して、またモヤモヤしてきた。

「で、紅涙の方なんでさァ。」
「どう…というのは…?」
「覚悟。そろそろ見えてきやしたか?」
「……、…まだです。」

沖田さんの言葉に首を振った。

「もう少しで形になりそうな気はしてたんですけど…。」
「ほう。どんな風に?」
「自分を持つというか…自分の足で立つというか……、そういう内側の強さ、みたいなものを掴めそうな感じが」
―――カタン…

弱い夜風が障子を揺らす。沖田さんは障子の方を見た後、「なるほど」と平坦な声で言った。

「いいんじゃねェですかィ?その方向で。」
「でも…先に土方さんの機嫌をなおさないといけなくなって…。」
「確かに。何のために紅涙が仕事に打ち込んだのか分からなくなりやすからね。」
「そうなんですよぉ…。」

ほんと、沖田さんはよく分かってるなぁ…。

「けど残念でさァ。近いうちに俺の助言が必要なくなると思うと。」
「…ふふ。これまで付き合ってくれて、ありがとうございました。」
「まだ終わってやせんよ。」
「お礼の前払いです。」
「くくっ。……やっぱアンタはいいな。」

沖田さんは目を細め、薄い笑みを浮かべた。

「紅涙、俺ァアンタみたいな人が好きだ。」
「っ…お、沖田…さん?」
―――ギシッ…
「!?」

部屋の前に…誰かいる…?

「紅涙、」
「ちょっ、ちょっと待ってください沖田さん。部屋の前に」
「気になるなら入ってくりゃいいじゃねェですか、」

障子の向こうへ声を掛ける。

「それとも、怖くて開けられやせんか?土方さん。」
「っ!!」

障子が開く。そこには口をキツく結び、眉間に深い皺を作った土方さんが立っていた。
そんな…こんな時に……

「土、方…さん……。」
「……。」

けれど目が合わない。土方さんはずっと鋭い視線を沖田さんに向けている。

「言いたいことがあるなら聞きやすぜ。」
「……。」
「なんですかィ?怖ェ顔して黙ってたら何でも手に入ると?」
「……早く寝ろ。」

それだけ言って、障子を閉めた。私とは一度も目を合わせなかった。まるで私が見えていないみたいに、一度も。

「あーらら。てっきり怒鳴り散らすと思いやしたが。ねィ?」
「…、…土方さん……、」

土方さんは、私を消そうとしていた。頭の中から、感情の中から。もう関係がないと、切ろうとしていた。
考えなくても分かる。このままだと本当に私達は……終わる。

「っ、」

沖田さんの部屋を飛び出し、土方さんの後を追いかけた。副長室へ入ろうとしていた背中を見つけ、呼び止める。

「土方さん!」
「……。」

障子に手を掛けたまま、土方さんが動きを止めた。振り返りはしない。けれど私はすぐ傍まで近付いて口を開いた。

「あのっ…、……、」
「……なんだよ。」
「あ……、…えっと、…。」

…しまった。何を話せばいい?呼び止めなければ…と焦って来たけど、その先で話す内容まで考えていなかった。何か…何か……あっ、そうだ。さっきのことを釈明しなきゃ。

「あの…さっき沖田さんの部屋にいたのは、べつに――」
「良かったじゃねーか。」
「……え?」

土方さんがこちらを見ずに言う。

「初めから総悟にしときゃ良かったんだ。」
「土…方さん…?」
「言ったじゃねェか。『総悟がいるだろ』って。」

私の方へ振り返った。その表情は、昨日までの怒りに満ちた顔とは違う。呆れて興味の薄れたような目をしていた。

「それにしても、俺に飽きたらもう次とはな。」
「…え…?」
「尻の軽い女。」
「っ、」

なに…言ってるの……?ううん、私…今、何を言われた…?

「総悟の次は誰を狙う気だ?」
「……、」

土方さんの言葉が耳に届く度、私の中で何かが潰れていく。バラバラと、音を立てて崩れ落ちていく。

「まさかお前がただの隊士好きだったとは。」

吐き捨てるように笑う。
胸が…苦しい。鼓動が大きくなり過ぎて、身体全体が脈打つみたいだ。

「まんまと騙されたよ。」

軽蔑するような視線を受けながら、私は何も話せずにいた。混乱して、頭の中が真っ白で…同時に、怒りと悲しみが入り混じる。

「次の相手をまたうちの隊士から探す気なら、ここの女中を辞めてからにしろ。うちの隊を引っ掻き回されるのは迷惑だ。」
「……。」

もう…目の前で話している言葉すら理解できない。どうして…、…どうしてこんな言い方されなきゃいけないの?どうしてこんな……っ。

―――パンッ
「……、」
「あ……、…。」

気付けば私は、土方さんの頬を引っ叩いた。
…痛い。手の平がジンジンする。こんな風に人を叩いたのは初めてだ。土方さんは…黙って私を見ている。

「っ…ひどいです…っ、…!」
「……どっちが。」
「っ…、」

怒りを通り越したのか、土方さんは私を冷たい目で見る。まるで、心底呆れたと言ってるような。
『尻の軽い女』
覚えのない侮辱が、耳にこだまする。

「っ、最低!!」
「…それはお前の方だろ、淫乱。」
「っ!!」

私はもう一度手を振り上げた。…けれど、

「っ!?」
「……。」

頬を叩く直前に阻止される。土方さんは、寸でのところで私の振り下ろした手首を掴んでいた。

「二度も叩かせるかよ。」
「っ…。」

感情のない目で言う。なのに私の手首を握る力は、ギリギリと音が鳴りそうなくらい強かった。
どうしてこうなった…?どうして私達はこんなことをしている…?わからない。わからないけど、悲しい。悲しくて…悔しい。

「…っ、放して!」

掴まれた手を振る。こんなに強く握られていたら振り解けるわけない。でも、土方さんが手を放した。
黙って背を向け、部屋に入る。さすがに、その背中を追う気にはならなかった。

「……痛い、」

握り締められた手首が、赤い指跡を残している。こんなに強く掴むことなんてないのに。

「…、…っ、」

指跡を見ていると、さがに涙が浮かんだ。
あんな風に言われたことも、あんな風に見られていたことも、……あんな風に思わせてしまった自分にも、唇を噛んだ。

にいどめ