近距離先生3

放課後に恋+数学と国語

午後は午前中よりも大変だった。
大量に与えられた業務をこなしていると、突然「代わるわ」と言われ、

「早雨さん、授業なんて教育実習ぶりでしょう?今のうちに先生方の授業見学をして、勉強してきたらどうかしら。」

唐突に提案される。
『どうかしら』なんて言っているけど、私が答えられる言葉は一つしかない。

「わかりました、そうします。」

なんというか…隙間なく予定を組まれている。
確かに合間の時間をどうしていいか分からないとは思っていたけど、こうも詰め込まるとさすがにキツい。…無い物ねだりかな。

「明日から数日間は、早雨さんも私と一緒に授業に出てもらうつもりでいるから。」
「えっ、あ…はい。」
「その時に今後の要領を得ればいいわ。他の時間は今日の午前中みたいな仕事をしてもらいつつ、空き時間は授業見学に回ってもらう感じで。それでいいわよね?」
「…はい、ありがとうございます。」

何事も、慣れるまでは仕方ない。

そうして6時間目が終わり、帰りのホームルームの時間になった。
職員室で土方先生と合流する。

「なんか…久しぶりに土方先生と会った気がします…。」
「お疲れ。」

二人で教室へ向かい、生徒を確認して連絡事項を伝える。
淡々とホームルームを終えた土方先生は職員室へ。私は生徒一緒に教室掃除。他愛ない話をしながら掃除を済ませ、

「早雨先生、また明日ね!」
「気を付けて帰ってね。」
「バイバーイ!」

教室から誰もいなくなったのが17時。

「はぁぁ……、」

疲れた。短いようで長い一日だった。なのに思い返しても断片的にしか思い出せない。

「溜め息を吐く間もなかったなぁ…。」

目の前のことに取り組むだけで精一杯。メモに残しておこうと思ったことも忘れてしまった。

「明日から大丈夫かなぁ…。」

いつか…、いつかきっとこの疲れに充実感を得る日が来る。いつか……きっと。

「……早く来ないかな。」
「誰と待ち合わせだ?」
「っ!?」

声のした方を見た。
廊下から教室に入ってきたのは、

「ひ、土方先生…、」
「初日から逢い引きたァ良い度胸じゃねェか。」

薄い笑みを浮かべる土方先生だった。
教壇の前にある生徒の机へ軽く腰かけると、

「まだ仕事は終わってねェんだぞ。生徒が帰った後は、残ってる業務の片付けと明日の準備。逢い引き相手にはそう伝えろ。」

腕を組む。

「…違いますよ、誰とも待ち合わせなんてしてません。」
「さっき言ってたじゃねーか、早く来ねェかなって。」
「あれは……、…充実感を。」
「充実感?」
「…、」

話すかどうか一瞬悩む。…けど、

「今日みたいな…日が、」

話すことにした。

「『忙しいけど楽しかった』、『明日も頑張るぞ』って思える日が…早く来たらいいなと思って…言ってたんです。」

どんな言葉を返されるだろう。
どんな目で見られるだろう。
それを想像すると、土方先生の目を見れなかった。

「…今日は違ったのか?」
「…、」

頷く。そのまま窓の方へ目をやった。

「色々あるだろうなとは思ってたんですけど…、」

わかってる。
どんな時も、物事の始まりは大変。上手く動き出すまでに、ものすごく労力がいる。それは…分かってた。

「でも……、…、」

暮れていく空を見ながら、焦りに似た胸騒ぎを覚える。
夜がくれば、じきに明日が来る。また、明日になる。

「今日はちょっと……明日が憂うつで。」
「…、」

土方先生は、何も言わなかった。
何も言わないから、

「明日がちょっと…恐いんです。」

私は夕暮れを見ながら、また一つ弱音をこぼした。
土方先生に何か言ってほしいわけじゃない。ただ、

「…、」
「…。」

教室を包む静かな空気が、私を不安にさせる。

「……。」

今、ここは耳が痛くなるほど静かだ。
背後から土方先生の息遣いすら聞こえない。
…もしかして、もう土方先生はいないのかな。私の言葉に呆れて、職員室へ帰っちゃったのかも。こんなところでいつまでも時間を潰すほど暇じゃないはず。……うん、きっとそうだ。

「…、」

深く息を吸い、大きく吐き出した。
私も戻ろう、職員室に―――

「偉いよ、早雨は。」
「!!」

ビクッと肩が揺れた。
振り向くと、さっきと同じ位置で、さっきと変わらない体勢の土方先生がいた。

「ま…まだいたんですね。」
「そりゃどういう意味だ、失礼なヤツだな。」
「す、すみません…。あまりに静かだったので、てっきり職員室へ戻ってしまったのかと。」
「あァ?お前、俺をどういう目で見てんだよ。話の途中で帰るわけねェだろーが。」

眉間のシワを寄せ、ジャケットの内ポケットへ手を差し入れる。何か取り出すのかと思ったけど、

「…あークソッ。」

舌打ちして、何も持たない手を引き抜いた。

「早雨。」
「はい、」
「なかなか根性あるな。」
「え…?」
「『ちょっと』で納めたお前は偉い。」
「…、」

私のどこまでを知っていて、どこまで見透かした上で言っているのか。それは…とても怖くて聞けなかったけど、

「もしその『ちょっと』が言えなくなった時は……いや、」

土方先生は私を見て、

「言えなくなりそうな時は、俺に話せよ。」

小さく笑ってくれた。

「土方先生…」
「あんま上手く言えねェが、他のヤツらよりは近くにいるんだ。遠慮なく頼ってくれ。」
「っ…、」

…嬉しかった。
寄り添ってくれる気持ちが嬉しくて、胸まで苦しくなった。

「初日お疲れさん、早雨。」

立ち上がった土方先生の手が、ポンと私の頭に乗る。

「よく頑張ったな。」
「…っぅ、」

それをきっかけに、せき止めていた私の感情が涙になった。
疲れと、疲れと、…大部分は疲れのせいだけど、こうして理解してくれている人がいることに泣けた。

そして私は、

「…土方先生…、」
「ん?」
「……、…なんでもないです。」

言わずもがな、土方先生に恋をした。

それからというもの、
同じ生活リズムで仕事を続け、二週間目から授業を受け持つようになった。初めは緊張しかなかった授業だけど、回数を重ねればそれなりの形になった…と思っている。

勤務初日のような弱音も、もう吐いていない。
あの時の落ち込みに近い日は多々あるものの、それを越えるほど辛い日はなかった。なぜだか分からないけど、準備室にいても、あまり業務を押し付けられなくなったし。

おかげでこうして、

「早雨、次。」
「次は…英語ですよね。えっと…78、82、」

午後の空いた時間に、職員室で土方先生の仕事を手伝うことも出来ている。

今は期末テストの点数確認中。
私がクラスごとの点数を読み上げ、土方先生が一覧表のデータと照らし合わせていく。地味だけど、間違いが許されない大切な業務の一つ。

「よし、C組終了。次、うちのクラス。」
「はい。まず土方先生の数学から。61、53、68、47、…51、…。」
「…。」
「…に、24…、」
「ちょっと待て。」

眉間を指でつまんだ。言わんとしていることが分かる。だってD組の成績……

「なんでこんなに悪ィんだよ!」

なぜか数学だけ異様に悪い。

「よりにもよって自分のクラスが一番悪いなんて…ッくそ!つーか誰だ、その24ってヤツ!」
「ええっと……原田君ですね。」
「原田の野郎ォォっ…!」
「あ、でも国語だけはすごく良いです!91!」
「なんで国語は良いんだよ!!」

「そりゃあ教え方が良いからでしょーよ。」

「「!」」

ニタついた声に顔を上げる。
銀八先生が片眉を上げて腕組みしていた。

「糖尿ォ…!!」
「まァ言っちゃなんだけど、俺の方が人気あるからね。」
「関係ねェだろ!」
「はァ~?知らねェの?生徒ってのは、教師との信頼関係が高いほど学びに対する吸収率が上がんだよ。」
「何を根拠にッ」
「これだ、これ。」

スッと何かを差し出す。

「キミも読んで勉強したらどうかね?フォッフォッフォッ。」

妙な高笑いをされながら、差し出された紙束に首を傾げる。
紙束はA4の用紙をホッチキスで綴じており、表表紙にマジックで『最新版!教育進化論~これさえ読めば、キミも明日から銀八先生~』と書かれていた。

「…なんだこれ。」
「手作り感満載ですね。」
「そう。だって俺が書いた学生進化論だもん。」
「はァァ!?」
「ぎ、銀八先生が…?」
「早雨ちゃんにも1部やるよ。読めでみろ。」
「え、あ…ありがとうございます。」

表紙をめくる。
なんとも言えないフリーハンドの挿し絵と共に、味のある字が並んでいた。もちろん、全て手書きで。

「これを2部も作ったんですか…?」
「そうだぞー。昨日出勤してからずーっと書き続けたもんだから、今は指は痛ェし腕はダリぃわで、肩こりもヤベぇのよマジで。」
「いや仕事しろ!こんなもん作ってる暇があるなら、校内を見回れ!」
「ひっでェェ!コイツ、新米教師のために丹精込めて作った俺の教科書を『こんなもん』とか言いやがったァー!」
「当たり前だろうが!何が教科書だ!こんなヘロッヘロな字に加え、独断と偏見の塊しかない内容で!」
「あァん!?」
「あ”ァ”ん!?」
「あっあの!」

睨み合う二人の間に立ち、二人の目が合わないよう遮る。

「他の先生方もお仕事されてますし、あまり大声を出さない方が」
「早雨ちゃん、」

銀八先生が私を手で制した。

「今回の俺への侮辱は見過ごすわけにいかねェんだ。」
「銀八先生っ!」
「…そうかよ。なら、」

土方先生が立ち上がった。

「いい機会だ。テメェとは一度ケリをつけなきゃならねェと思ってた。」
「土方先生!?」
「上等だコラァァ!」
「おもてに出ろやコラァァ!」
「二人とも落ち着いて!」

一歩前へ出た土方先生を押さえようと手を伸ばす。すると、

「邪魔だ。」

手を払いのけられ、

「っあ、」
―――ガシャンッ!!
「「!?」」

私は体勢を崩し、後ろに倒れてしまった。不幸にも回転式の古い椅子があって、それもろとも共倒れに。おかげで大げさなくらい大きな音が職員室に響いた。

「い、たた…。」
「大丈夫かよ、早雨ちゃん!」
「だ、大丈夫です…すみません。」
「なに謝ってんだ、謝るのは土方の方だろ。」

立ち上がる私に手を添えてくれた銀八先生が、キッと土方先生を睨む。

「謝れよ、土方。」
「…チッ。悪かったな、早雨。」
「あっいえ、私がバランスを崩したせいなので…」
「待て、早雨ちゃん。そこはちゃんと怒らねェと!」
「え?」
「おい甘党。俺は謝っただろうが。」
「テメェの謝り方がなってねェんだよ!謝る前に舌打ちするやつがいるか!?」
「…っせーな。」

土方先生は心底うんざりした顔で私を見た。そしてわずらわしそうに溜め息を吐く。

「あ…」

その振る舞いに、

「っ、」
「早雨、悪かっ――」
「あのっ!」

焦った。
胸の底から急激に沸き立つ水のように焦った。

「そのっ…大丈夫ですから!」
「?」

きっと今、私は土方先生にとって鬱陶しい存在になっている。

「…早雨?」
「早雨ちゃん?」
「私が勝手に転んだだけで、その…怪我なんて当然ありませんし!だから……っ」

悪く思われたくない。
せっかく一緒に仕事する機会が増えたのに、嫌われたくない。土方先生にだけは…

嫌われたくない!!

「失礼しますっ!」

逃げるようにその場を離れる。

「っあ、おいっ!」
「早雨っ!?」

混乱する二人を残して。

にいどめ