運命40

昨日のように+客と遊女

二十時。
ひっきりなしにお酒が運ばれているところを見ると、宴会は予定通りに開かれているらしい。けれどそこまで騒がしくはない。夢路屋の遊女が総出動しているというのに……

「紅涙、そろそろやよ。」
「っあ、はい!」

襖の向こうで女将さんの声がした。

天神は二十時より少し後、場が温まった頃に宴会の場へ出向く。
『脱がない遊女』として昇ってきた私だから、大層な登場はしたくないけれど、揚屋の風習として仕方がない。少なからず、他の遊女は私が皆と同じルールで上り詰めたと思っているし…

「お待たせしました。」

襖を開けると、女将さんは着物をたすき掛けにして立っていた。

「準備ええか?」
「はい。…忙しそうですね。」
「こんな忙しいのは久しぶりよ!お酒のペースが異常に早いお客様やから、今さっきも周りの揚屋にお酒借りて回ったとこ。」

そう話しながらも嬉しそうな様子に、小さく笑う。

「でも他の宴会と比べて随分静かですよね。」
「まぁお客様が三人だけやさかいな。」
「えっ、三人で…貸し切られたんですか?」
「そうやで。要望通り、うちの子ら全員つけてるけど、さすがに三人やったらここまで聞こえてくるほど騒がしぃないわ。」

女将さんは着物のたすき掛けを締め直し、

「そしたら紅涙、」
―――ポンッ

私の背中を叩いて、ニコッと笑った。

「せぇらい楽しんできぃや。」
「…え?」

楽しむ?『気張る』じゃなくて?

「うちは首を長ぉして今日という日を待っとったで。」
「?」
「さぁ行っといで!」
「ぇ、あ、…はい。」

首を傾げる私とは反対に、笑顔の女将さんに見送られ、私は宴会が行われている広間へと向かった。

「…。」

広間の襖の前に座り、挨拶の準備をする。ここでようやく、

『オジさんと野球拳する人~!』

中から楽しそうな男性の声と、遊女達の黄色い声が聞こえてきた。

『あ~!ズルいぞ、とっつぁん!俺もやる!!』
『うるせェ!俺の誕生日だろうが!』
『とっつァんの犬のだろォ!?』

とりあえず楽しんでいるようでホッとした。

「失礼いたします。」

襖に手をかける。
…とは言え、場の空気を止まらせてしまうのは気が引けるので、極力そっと入室したい。私は襖を閉め、三つ指を立てて頭を下げた。

「紅涙でございます。」

控えめに挨拶する。お酒の匂いが薄らと鼻に届いた。

「それじゃあオジさん、まず月菜ちゃんと野球拳しよっかな~!」

…よかった、場の空気は壊してないみたい。
胸を撫で下ろし、顔を上げる。が、

「ちょっ…ちょっと!?」

目に飛び込んできた光景に唖然とした。
すぐ傍の畳に、遊女が寝転んでいる。見るからに、お酒に酔っ払って。

「大丈夫!?」
「あ~紅涙さんだ~。えへへ~、」

気分は悪くないらしい。
ひとまず座らせようとすると、フラフラと身体を揺らしながら壁に背を預けた。

「どうしたの?もてなす側のあなたが酔っ払っちゃうなんて…」
「今日はみーんな気兼ねなく呑んでいい日だって松平さんが言ったからぁ~」
「『松平さん』?」
「やだ~、警視庁長官に決まってるじゃないれすかぁ~。」

力ない指で広間の奥を差す。
そこにはサングラスをかけた年配のお客様と、こんなに賑やかな中でも大きな骨…?にアゴを乗せてスヤスヤと眠る犬、そして、

「ッ!?」

見知った二人の顔があった。
あれは……

「近藤さんと…、…十…四郎…さん…?」

止まっていた感情が、また大きく動き出すのを感じる。

「どうしたんれすか~?」

私を覗き込んできた。けれどその身体はグラッと前方に倒れ、慌てて支えに入る。

「大丈夫!?」
「紅涙さんこそ~。」
「…、」

「何してるんや、紅涙。」

「!」
「あ!女将さ~ん。お疲れ様でぇ~す。」

私の後ろに手を振った。
振り返ると、女将さんは溜め息を吐いている。

「えらい酔っ払ってしもうて…。」
「えへへ~。」
「あの…私、この子を部屋に連れて行きます。」
「何言うてんの、介抱やったらうちがやる。」

女将さんが傍に膝をつき、広間の奥へ向かってアゴを差した。

「アンタは早ぉお客様のとこ行っといで。」
「で、でも……」
「『でも』何やの?」
「…、」
「仕事投げ出す言うんか?」
「そういうわけでは……、…。」
「遊女やねんから割り切りなさい。」
「っ!」
「…とは言わんわ。少なからず、うちはな。」

女将さん…?

「遊女や言うてもロボットやない。心を持った人間であり、一人の女や。…せやから忘れたらアカンよ、紅涙。」
「?」
「幸せは、みんな平等にあるんやで。」
「!」

私の眼を見て、静かに頷く。

「アンタもそろそろ、自分の気持ちに素直になって動いてみなさい。この世の中、ジッとしててもええことなんてないんよ?」
「女将さん…、…っ。」

心が震えた。
唇を噛んで、曇りそうな視界を耐える。

「ほら、早ぉ行き。」
……十四郎さん、
「…失礼いたします、」
あなたは…この三年、
早かったですか?
「…お久しぶりです、……十四郎さん。」
私は、早かったのだと思います。
振り返ってみても、あの日と、ほんの数日くらいしか思い出せないから。
それはまるでつい先月のようだけれど、気持ちは…あなたへの想いは、
「…、…久しぶりだな、……紅涙。」

とてつもなく長い時間だったと言っている。
久しぶりに聞いた十四郎さんの声が耳に入るだけで、なぜか小刻みに手が震えていた。

気付かれないよう、顔に出さないよう、
遊女として働いてきた自分を掻き集め、窓際で一人静かに呑む十四郎さんの隣に腰を下ろす。

「また…こうしてお会いできるとは思ってもいませんでした。」
「…ああ。俺もだ。」

十四郎さんの前にある猪口に、お酒を注ぐ。初めて出逢った時と同じように。

「…、」

猪口に口付ける、美しい横顔。
あの日も見惚れて、今もまた私は見惚れていた。

「…、…に…たな。」
「…え?」

ハッとして、視線を十四郎さんの眼に移す。

「また綺麗になったな。」
「!…あ、ありがとうございます、…。」

顔が熱い…。
誰もが遊女に使う言葉も、十四郎さんが言うと特別に感じる。

「と…十四郎さんも…、ますます格好良くなられて…、…。」
「…フッ、ありがとな。」
「っ…、」

頭が回らず、大して気の利いた言葉も掛けられない。
十四郎さんは小さく笑って、猪口を口に運んだ。

「…、」

私と違って、十四郎さんは随分落ち着いている。
当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。ここへ来ようと思うくらいなのだから、私と会っても何も想うところがないのだろう。

私だけが……まだ三年前にいる。

「…十四郎さん、」
「うん?」

…この三年で十四郎さんは、

「何か…変わりましたか?」
「…変わったとは?」
「……誰か…、…、」
「…。」

十四郎さんにとって、

「誰か……いい人は…出来ましたか?」
「いい人…、」
「…あっ、す、すみません…!」

遊女の立場で、お客様に詮索してはいけない。
自分の小ささと未練たらしさに気付き、慌てて謝罪した。

「私…余計なことを」
「ない。」
「え?」

十四郎さんが小さく微笑む。

「そんなヤツ、出来てねェよ。」
「!…そ、そうでしたか…、」

嬉しい…、良かった…。
そんな感情で頭がいっぱいになった。

「お前は天神になったのか?」
「あ、はい…、そうです。」
「…頑張ったんだな。」
「……、…はい。」

『頑張ってなんかいない』
『天神になったけれど、誰にも身体は許していない』
伝えたい言葉が喉まで迫り来る。…ましてや、

「それなら高ェんだろうな。」
「…『高い』?」
「お前の一晩の値段。」
「…、」

ましてや、十四郎さんからそんな言葉を聞いて、

「……そう…ですね…、…。」

私は遊女にとって当たり前の問いを、すぐに理解できなかった。

「…まァいいか。」

十四郎さんはサッと周りを見回し、浅く溜め息を吐く。そして猪口を置くと、私を見て言った。

「お前を一晩買う。」
「っ!」

…十四郎さんは、私を単なる一人の遊女として見ている。三年前と違って。
『これも…遊女だからいいのかよ』
『……そうですよ』

自業自得。
私がそう口にしてきたのだから。

「…ありがとうございます。」

座りなおし、頭を下げた。
寂しく思う気持ちはある。けれど、それ以上に私の胸は忙しなく動いていた。

「…。」

お客様としての付き合いだとしても、偽者の愛だとしても……それでもいい。…そう思えた。

「いいのかよ。」
「…?」

顔を上げる。
十四郎さんは無表情で私を見据えていた。

「紅涙を買ってもいいのか?」
「…、…もちろんです。ここは…そういう場所ですから。」
「…そうだな。」

すっと伸ばした十四郎さんの手が、私の頬に触れる。

「いくらでも払ってやるよ。」

親指で優しく唇をなぞり、

「天神まで上り詰めちまったお前を買えるのなら、」
「…、」
「……いくら払っても惜しくはない。」

十四郎さんの顔が近付いた。
拒みはしない。拒むわけがない。
動かない私の唇に、十四郎さんの唇が重なり。

「…っ、」

全身にピリッと電流が走った。
身体がこの瞬間を待ち望んでいたと言っているようだった。

「ん……」

優しく触れる軽いキス。それだけじゃない。

「っ、ふ…っ」

ぬるりと十四郎さんの舌が唇を割り入った。
『開けていろ』
そう言われるかのように半開きにされた咥内を、生温かい舌でまさぐられる。

「っは…ぁ、ふっ…」

気持ちいい…。
身体がうずく。
けれど、理性も僅かに残っていた。

「んんッ、…待っ、っ、て…っ」

十四郎さんの胸を押すと、

「…、」

名残惜しそうに舌を抜き出し、解放される。
息を乱す私達の間に透明の糸が繋がっていた。

「…なんだよ。」
「これ以上は…っ、ダメです、…!」
「ここまでで金を取るのか?」
「そうじゃなくてっ…」

促すように周りを見る。

「皆さんがいるところで…これ以上は出来ません。」
「見てるヤツなんていねェよ。」
「っ…」

確かに、松平様と近藤さんは遊女達との野球拳に夢中になっている。けど…けれどっ、

「…っすぐに、部屋を準備してきますから!」
「あっ、おい!」

私は慌てて立ち上がり、廊下で空き瓶を運び出していた二人の禿を呼び止めた。

「忙しいところごめんなさい。お客様がお泊まりになるから、部屋を一つ用意してもらえる?」
「わかりました!」
「あと、もう一つお願い。あの窓際で座っているお客様を、先にお部屋へ案内しておいてほしいの。」
「はい!姐さんのためなら喜んで!」
「ありがとう。」

すぐさま禿は各々役割を分担して、一人は部屋の準備へ行き、一人は十四郎さんの元へ向かった。

私は天神という立場もあって、広間の様子が気掛かりで。
席を外す前に、誰か一人、この場を見ておけるような子を立てておきたかった。

「…あなた、少しいい?」
「はい、何ですか?」

一人の遊女に声をかける。

「私は今からお客様と過ごすから、ここをあなたに任せてもいいかしら。」
「はっはい!わかりました!」
「ごめんなさい、よろしくお願いします。」

一番お酒を飲んでいなさそうな子に頼み、私は部屋を後にした。…しようとした時だった。

「あァ~!キミは紅涙さんじゃないか~!?」

まさしく酔っ払いらしい声に目をやると、裸で胡坐をかき、一升瓶を抱きかかえるように座る近藤さんがいた。

「お…お久しぶりです、近藤さん。服は…?」
「野球拳に負けちゃって☆」
「ああ…、」
「キミも一緒に呑もう!ああそうだ、トシも一緒に…って、あれ?アイツどこ行った?」
「あっ、と、十四郎さんなら、さっき席を外されていました。」 

『これから私と過ごすために』
…とは言い出せなかった。なんとなく事実を…、私を買ったとは、口にしたくなくて。

「まさかアイツ、先に帰ったんじゃ…」
「そっそれはないと思いますよ。だから近藤さんは安心して、ゆっくりお酒を楽しんでくださいね。」

微笑み、「では」と軽く頭を下げる。立ち去ろうとしたところを、

「ああっ、待って!」

再び呼び止められた。
おもむろに近藤さんが立ち上がる。慌てて目をそらすと、

「紅涙さんに聞きたいことがある!」
「!?」

ガッと肩を掴まれた。

「な…なんですか?」
「キミはトシのことが好きか!?」

……え?

「い、いきなり…何を…?」
「俺はトシが好きだ!」
「そ、そうですか…。」

随分酔っているとはいえ、的を射抜くような質問に動揺する。

「紅涙さんは?紅涙さんもトシのことが好き!?」
「…、」
「好きだよね!?ね!?」

……そうですね。
私は今でも、

「好きですよ。」

あの日から変わらず……十四郎さんのことを想っている。

「おおっっ!!」
「…もちろん近藤さん達のことも―――」
「こいつァめでてェ!ぜひとも祝わわにゃならんぞ!!」

「うるせェ近藤!!プー助がビックリしてんだろォが!」

「ああっ、ごめんよとっつァん!」
「プー助に謝れやコラァァァ!!」

賑やかな彼らに、

「…ふふっ、」

私は小さく笑い、そっと部屋を後にした。

「あっ、紅涙姐さん!」

廊下へ出て数歩のところで、先程頼んだ二人の禿に出会う。

「姐さん、部屋の準備できましたよってに。」
「お客様もお通ししてます。」
「ありがとう、とても助かりました。」
「こんな朝飯前の仕事やったら、いつでも言うてください!」
「…せやけど姐さん、」
「?」

一人の禿がニヤニヤしながら私の顔を見る。もう一人の禿も同じような顔つきで私を見た。

「やりはりますなぁ~。」
「?何が…」
「あんな男前なお客様を捕まえるやなんて凄い!」
「今度うちらにも教えてください!」
「あ……、…、えっと…、」

どう答えていいのか悩み、苦笑する。
それを肯定と受け取ったのか、二人は嬉々として去って行った。

「っ、待っ……、…。」

どうしよう。あの子達に何と説明しよう。

「……あ、」

それより十四郎さんだ。
早くお部屋へ向かわなくては。
待たせるわけにはいかない。…お客様なのだから。