それほど大切じゃない 5

それほど

土方さんは薄らと笑んだまま動かない。

「…いいんですか?本当に。」

私…ほんとにキスしちゃいますよ?

「気持ちを込めて祝ってくれるんだろ?」
「そのつもりです。」
「なら何でもしてくれ。お前にならどんなことされても嬉しい。」
「……っ、」

愛しさが膨らむ。

「…土方さん、」

私は、そっと唇を寄せた。鼻がぶつからないよう少しだけ角度を変えて、ゆっくり目を閉じながら自分の唇を…唇…を、……、………っ、

「やややっぱり待ってください!」

肩を押し、縮まっていた距離を元に戻した。

「どうした?」
「ちょっと…緊張で心臓がヤバくて。」

胸を押さえれば、壊れそうなほど音を立てている。

「も、もう少しだけ待ってください。」
「ったく、仕方ねェな。」

クスッと笑う。

「待ってやってもいいが、遅くなりすぎないようにしてくれよ?じゃねェとお前が一番じゃなくなるから。」

…え?

「どうして…ですか?」
「稀に総悟が来るんだ。わざわざ誕生日最初の嫌がらせをしに。」
「それは…お祝いとして?」
「一応な。」

肩をすくめ、グラスを手に取る。ひと口飲むと、「甘ェ」と眉間に皺を作った。

「いくらバーボンを入れても甘さは大して変わらねェんだな。飲むか?」
「あ、はい。いただきます。」

グラスを受け取り、口を付ける。やはり僅かにバーボンを足しただけあって、お酒の風味は強くなっていた。が、こちらの方が飲みやすい。

「おいしい…!」
「甘すぎるだろ。」
「私は全然ですよ!やっぱり好きです、この飲み方。」
「そうか。でもキツい酒には変わりねェから、あんま飲み過ぎんなよ?山崎みたいになる。」
「ふふっ、気をつけます。」

返事をしてグラスを傾けた。土方さんは小さく笑い、私に手を出す。

「そこまで。今はそれくらいにしとけ。」
「はーい…。」

グラスを渡した。

「そろそろ落ち着いたか?」
「…え?」
「心臓。」
「あっ…。」

言われて思い出した。

「も、もう大丈夫…です。」
「そんなこと言って、またジらす気じゃねーだろうな。」
「いえ…、」

これ以上待たせて一番を奪われるくらいなら、

「出来ます、から。」

やる。
私は膝立ちになり、土方さんの傍へ近寄り直した。

「……土方さん、」
「ん?」

私をやや見上げる。膝立ちの分、身長差が普段と逆さまだ。

「お誕生日、…おめでとうございます。」
「ありがとう。」
「……。」
「……?」
「…、……。」
「…おい、まさかそれだけか?」

下から顔を覗き込まれる。

「っ、ぅわ!」

とっさに身を引く。すると腰に手を回された。

「逃げんなよ、まだ質問の途中だろ?」
「べっ別に逃げるつもりは…っ」
「声。」
「?」

土方さんの人差し指が私の唇に押し当てられる。

「あんまデカい声出すと、アイツが起きる。」

顎で後方をさした。そこには山崎さんが気持ち良さそうに眠っている。

「あっ…すっかり忘れてました。」
「まァそれがアイツの役目だからな。…そんなことより、」

土方さんが私の髪に触れる。

「紅涙、さっきの続き。」
「…っ、」
「俺への気持ちを態度で示してくれ。早くしてくれないと…、」

ズイッと私に顔を近づける。

「俺の方から、やっちまうぞ?」

吐息が触れた。

「!」
「ほら…紅涙。」
「土…方さん……」

惹きつけられる。この目を見ていると、何も考えられなくなる。
考えられない…はずなのに。

『態度でイチャつくのは論外だけど、好意のある言動も禁止。普通にしろ、フツーに』

私の耳には、『正しいこと』が焼き付けていた。

「…ごめんなさい。」

再び肩を押し、二人の距離を元に戻す。

「紅涙?」
「ダメです…出来ません。」
「やっぱりじゃねーかよ。」

土方さんが困ったように笑った。

「俺を二度もジらすなんてお前くらいだよ。」
「…そうじゃなくて、万事屋さんの忠告を…守らないとって。」
「忠告?」
「好意を伝え合うなって…言われたじゃないですか。」
「……ああ、アレな。」

土方さんから笑顔が消える。

「アイツの言葉は気にしなくていい。いつも適当なんだ。どうせ今回も適当なことを言ってる。」
「今回は違うんじゃないですか…?万事屋さんは愛染香の経験者なんですから。」
「だとしても関係ねェよ。」

私の腰を引き寄せた。

「これは俺とお前の問題だ。違うか?」
「……、」

…違わない。私だって、キスしたい。でも……

「わかってください…土方さん。」

この瞬間を拒まなければ、『あと』が辛い。

「今は良くても、いずれ…必ず後悔しますよ。」
「後悔?なんだよ、本心では俺といるのが嫌ってことか。」
「違いますっ、そんなんじゃなくて…」

私の話でも、なくて。

「土方さんが後悔、するんですよ。」

『今の俺は、紅涙を何よりも優先したいと思ってる。そう…思っちまうんだよ。江戸の治安よりも真選組よりも、優先したいって』

もし今を優先したら、幻が消えた時、土方さんはきっとこの瞬間よりも深い後悔をする。

「しねェよ。」
「します。…必ず。」
「……いい加減にしろ。」

眉間をキツく寄せた。

「俺がしないっつってんだ。お前は俺じゃねェ、勝手に決めつけんな。」
「すみません…。でも……怖いんです。」

私は自分の手をギュッと握り締める。

「どんなに今土方さんが後悔しないと言っても、元に戻った時に違ったら…」
「違わねェよ。」
「そんなの分からないじゃないですか。」

有言実行の保証なんて、どこにもない。だって私達は…まだ愛染香という幻の中にいるんだから。

「本来の土方さんは、私のことを後悔するかもしれない…。」

私と過ごした時間を悔やみ、私を…受け入れられない。

「愛染香が切れれば、気持ちも消えます。それなら私は出来るだけ…良い思い出を…残したいんです。」

いつか思い出した時に、笑って、少し照れるくらいの記憶がいい。優しい思い出が欲しい。

「そのために、私はこれ以上の触れ合いを…避けたい。」

幻から現実に戻ってしまった時、僅かでも悲しくないように。

「これ以上、土方さんを…っ、…好きに、なりたくないんですっ。」

喉が詰まって苦しい。心に反する言葉を声にするのは…とても痛い。

「…お前、」
「お願い、…土方さん。」
「……、」

私の腰から、そっと手が離れた。

「…わかった。」
「ありがとうございます。」
「すげェよ、お前。それだけ冷静に考えられるなんて。」

…言われてみるとそうだ。もしかすると、私は愛染香の効果が切れ始めているのかもしれない。
だとすれば…この気持ちはどこから?こんなにも好きで、これ以上好きになるのが怖い気持ちは…一体どこから来ている?

「お前に言われて、少し冷静になった。」
「…っえ?」

ハッとして、土方さんを見た。
土方さんも切れかかってる?私と同じ時に吸ったんだから、ある程度はタイミングも同じ…はずだよね。

「今は何を想って何を口にしても、全部愛染香のせいなんだよな。」
「そう…ですね。」
「俺達が抱く気持ちも、愛染香と一緒に消えちまうんだよな。」
「…そうだと思います。」
「だったら、俺はお前に言っておきてェことがある。」
「何…ですか?」
「……、」

土方さんは私の手を取り、

「好きだ、紅涙。」

真っ直ぐに私を見て、そう言った。

「っ、…だからそういうのを我慢してほしいって私は…」
「これでも十分に我慢してる。」

土方さんが手を放す。グラスを持ち、苦しげに目を伏せた。

「我慢してなかったら、今頃俺は…お前を掻き抱いてるよ。」

土方さん…。

「けど、もう言わねェから。」

グラスを大きく傾けた。険しい顔で「やっぱ甘ェ」と呟き、また飲む。

「もう…何もしねェから。」
「……はい。」

そこから会話はなくなって。
延々と、ただ静かな時間が続いた。

「……、」
「……。」

こんなに気まずくなるなら、後先考えずに気持ちをぶつけた方が良かったんじゃないか…?
後悔を避けるために取った行動に、後悔を重ねる。何が正しくて、何が間違っているのか分からない。
考え込んでいると、眠気に襲われ始めた。おそらく原因は、時間的なものとお酒と疲労。

「……、…、」

ウトウトと、身体が揺れる。自然と瞼が閉じた。

「…眠いのか?」
「ん…、…すみ、ません…、」
「眠いなら布団敷いてやる。ちょっと待ってろ。」
「す…み、……ませ…、…」
「……謝ってばっかだな、お前。」
「すみ…」
「もういい。」

畳の擦れる音がして、私の左側にトンッと何かがぶつかる。目を開けようとしたら、同じく左側へ私の頭を倒された。
ああ…左側にあるのは土方さんか。土方さんが、肩を貸してくれてるんだ…。

「あとで運んでやるから、今はこのまま寝てろ。」

返事も出来ないくらい眠い。辛うじて頷いた…と思う。

「…なんつーか、」

まどろむ世界の中で、煙草に火を点ける土方さんを感じた。

「むなしいクスリだな、…愛染香って。」

…そうですね。

「お前が次に目を覚ます頃には、おそらく全部元通りだろうよ。」

互いを想う気持ちはないのに、互いを想っていた思い出が残る。
それって、どんな感覚だろう。別れた恋人同士みたいな感じ?私、ちゃんと割り切れるのかな…。
ちゃんと土方さんのこと…忘れられるのかな……。

煙草の匂いに、薄らと目を開ける。目の前を漂う煙が、どことなく淡い桃色に見えたのは、

「この気持ちが偽り…か。」

失う幻を、寂しく思っていたせいかもしれない。

しかし翌日。

「おいおいお前ら…どういうこと?」

昼過ぎに局長室へ来た万事屋さんは、私達を見て顔を引きつらせた。

「何がだよ。」
「トボけんじゃねーよ!昨日のテメェらなら、今頃は愛染香が切れてるはずだろ!?なのに何だよ、その状況!」

指をさされる。その先にあるのは、私と土方さんの間で繋がる手だ。

「ずっとこの調子なんだ…。」

近藤さんが苦笑する。

「何か変ですか?」
「変だろ!わかってねェの!?来客者の前で手ェ繋いで話してんだよ、キミ達は!」
「来客っつってもお前だし。放したくねェんだから仕方ねーだろ。」
「土方さん…。キュン。」
「『キュン』じゃねーよ!なに胸のトキメキを口にしてんの~!?」
「私もですよ、土方さん。この手を放したら、二人の仲が終わってしまうような気がして…」
「も、ちょっ、ストーーップ!!」

近藤さんが私達の手を引き離した。

「このままだと終わるのウチ!ウチの隊の方だから!」
「ひどいですっ近藤さん!」
「いくら近藤さんでも俺達を引き裂くなんて許せねェ…。」
「いい加減、二人とも目ェ覚ましてくれよ!」
「局中法度51条、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて切腹。」
「トシ~っ!?それ、馬に蹴られた時点で結構な負傷だから!というかそんな局中法度ないからァァァ!」

頭を抱える。涙目になった近藤さんは、キッと万事屋さんを睨みつけた。

「話が違うぞ万事屋!なんで昨日より酷くなってんだ!」
「知るかよ。また吸ったんじゃねーの?」
「愛染香をか!?トシがそんなことするわけねェだろ!!」
「うっせェな。いちいち声デケェんだよ、お前。」

万事屋さんが右耳に指を入れる。近藤さんは「だって…」と口を尖らせた。

「今頃は効果がきれてるはずだったのに、予定と全然違うんだもん。」
「毛むくじゃらのゴリラが『だもん』とか言わないでくれる?聞いてるこっちまで毛が生えるわ。」
「ひどっ!」
「まァ何にせよだ。この状態を見た限りはコイツら、愛染香を吸い直してるよ。だろ?お前ら。」

視線を受け、私は土方さんを見た。

「そんなことしてませんよね?私達。」
「ああ。してない。」
「んなわけあるか。愛染香は時間差で効果が強くなるような代物じゃねェんだよ。」
「そう言われても…。」

吸ってないものは吸っていない。
困っていると、土方さんが私の手を取って繋ぎ直した。

「吸い直してねェのに気持ちが強まるなんて、簡単な話じゃねーか。単に俺達の愛が本物だったってことだよ。」

嗚呼っ、土方さん…!

「そうですよね!それしか考えられません!」

大きく頷く。「そうかそうか」と笑いながら頷いた近藤さんは、万事屋さんの襟元を掴んで揺すった。

「おい!どうしてこうなったんだ!説明しろ!!」
「だから俺は知らねェって!」
「万事屋のくせに無責任なこと言うなよ!」
「ちょ、難癖つけないでくれる!?これに関しては、そっちの監督不行き届きだろォが!」
「監督…そうだ、山崎!」

キョロキョロと辺りを見回した。

「トシ、山崎はどこだ?」
「知らねェよ。」
「知らないって…ずっと監視されてただろ?」
「ああ。だが起きたらいなくなってた。な?紅涙。」
「はい。私も寝るまでは見ましたけど…」

首を振る。近藤さんがまた頭を抱えた。

「山崎まで一体どこに…!……万事屋、」
「あァん?」
「こうなったら…もう手段は選ばない。」

決意したように、近藤さんが強い眼差しを向ける。

「なんとしても、二人を元に戻してくれ。」
「へいへい。んじゃ準備するぞ、近藤。」
「お前も気をつけろよ。」

そう言って、近藤さんが万事屋さんにマスクを投げた。…マスク?

「あの…今から何をするんですか?」
「愛断香を焚く。」
「あいだんこう?」

万事屋さんが私に手の平を見せた。そこには愛染香のような、小さなハート形のものが乗っている。だがハートの中央にギザギザな割れ目が彫られていた。

「これが…愛断香?」
「そ。愛染香の効果を打ち消すクスリな。」

万事屋さんが懐に手を入れる。取り出したのはライターだった。

「…ちょっと待てよ。」

土方さんが一歩、前に出る。

「俺達は打ち消しなんて望んでねェぞ。」
「だろうな。けど近藤達は望んでる。」
「知るかよ!近藤さんより当事者の声を尊重しろ!」
「トシ…、」

近藤さんが悲しそうな声を漏らす。万事屋さんは溜め息を吐きながら肩をすくめた。

「俺が依頼を受けたのは近藤だ。さらに言えば、報酬を出すのは真選組。」
「だから何だよ。」
「わかんねェのか?お前の意思を尊重するメリットがないっつってんの。」
「ッ、テメェェ!」
「万事屋。」

近藤さんの真っ直ぐな声が部屋に響く。その表情を見て、胸騒ぎがした。

「やってくれ。」
「っ!?近藤さん、アンタ…」
「すまないトシ。だが真選組にはお前が必要なんだ。」
「それとこれとは話が別だろ!?」
「別じゃない。トシが愛染香を吸ってから、滞っているものがたくさんある。」

そうかもしれない。土方さんの部屋に積み上がっていた書類は今日が期限だと話していたけど、あれがもし嘘なら…

「本当は俺も、誕生日くらいトシの好きにさせてやりたいんだ。だが状態が悪化し、その原因も不明となると…さすがに見過ごせない。」
「近藤さん…」
「わかってくれ、…トシ。」

『お願い、…土方さん』

「……。」

葛藤する土方さんの横顔に、胸が痛くなった。
私の隣にいる間、ずっとこんな顔をさせている気がする。こんな顔をさせているのは…私のせいだ。

「土方さん…、」

私が、背中を押さなければいけない。…でも……。

「あと一日だけでも…待てねェのか。」
「待てない。トシが欠けるだけで真選組は機能しないんだ。」
「…重いな。」
「…すまない。」

近藤さんが浅く頭を下げる。土方さんは大きく息を吐いた後、

「…いや、」

静かに首を振った。

「謝るのは俺だ、近藤さん。真選組内での責務は、テメェが作ってきた道なのに…。」
「トシ…」
「……紅涙にも謝らねェとな。」

土方さんが私を見る。弱く眉を寄せ、笑った。

「巻き込んじまって悪かった。」
「……、…いえ、楽しかったです。」
「俺も。…楽しかった。」

繋いでいる手の力が緩む。放そうとしているのが分かって、切なくなった。

「…っ、土方さん。」

最後にギュッと、私は土方さんの手を握り、

「好きです…。」

喉にたくさん引っ掛かっていた言葉を吐き出した。

「…それは言わない約束なんだろ?」
「最後…ですから。」
「……そうだな。だったら俺も言わせてくれ。」

手が離れた。ほんの少しの沈黙の後、

「俺も、お前が好きだよ。」

土方さんは私の額に優しいキスを落とし、

「…万事屋、頼む。」

愛断香に、火がついた。

にいどめ