傷心して来る男
あの人は毎回好きな様に抱き、飽きたように捨てて帰る。
こんな場所で愛だの慈しみだのを言うつもりはないけれど、一人目覚めた朝の虚しさは…想像以上のものがあるのに。
「…。」
思い出すだけでも気が滅入った。
…なんで私なんかを相手にするのだろう。
元々あの人は、私が夢路屋へ入るまで指一本触れて来なかった。それが夢路屋へ入った途端、『待ってました』とばかりに抱くようになった。
身近に捌け口が出来て都合が良かったのかもしれないけれど、半端者の遊女を相手にするより、ちゃんとした遊女の方が満たされるはず。…なのに、
「…わからない。」
本当に心が見えない。考えが読めない。
「……はぁ、」
湯浴みを済ませ、着物に袖を通した。鏡を見て、さらに溜め息が盛れる。
「やっぱり…、」
鎖骨にある、赤黒いアザ。他に痕なんて一つもないのに、こんなにも目に付く場所に付いてある。
「…どうして?」
『虫除けだ。お前に悪い虫が付かねェようにな』
あなたを超える悪い虫などいない。
「っ、」
涙が込みあげた。
…真の遊女なら、高杉みたいな客をごまんと相手にしているはず。たかが一人くらいで泣いていたら、女将さん達に怒られてしまう。
「…しっかりしないと。」
ここでお世話になっている以上、せめて迷惑だけは掛けないように強くありたい。……けれど、
「銀ちゃん……来ないかな。」
今日は…叶うことなら、甘えたい。
『…紅涙、すぐには無理だけど、金貯めてお前のこと自由にしてやるから』
銀ちゃん……、
「紅涙、お客様が来はったよ。」
「っ!?はっ…はい、」
化粧が崩れないよう涙を拭き、私は小走りに部屋を出た。
はやる気持ちを抑え、襖を開く前に深呼吸してから声を掛ける。
「失礼いたします。」
襖を開けた後、頭を下げた。
「紅涙でございます。」
顔を上げる。途端、
―――ドンッ
「!?ッきゃ、」
中にいた客が抱きついてきた。誰かを認識する猶予もなく、もはや体当たりに等しい。
「っあ、」
勢いに負けた私の身体が後ろへ倒れる。でもしっかりと背に回されていた手のおかげで、倒れずに済んだ。
「あ、あの…」
誰…?
「うぅっ、」
その人は泣いているのか、時折、鼻をすする。にも関わらず、力強く私を抱いて動こうとしない。
「ぐすっ…、」
「…、」
どうしたんだろう。
抱きつかれた背に手を伸ばした。
赤い服を着た人。…銀ちゃんではない。少し視線を変えると茶色い毛先が見えた。パーマのような、フワフワした髪。…これは、
「坂本さん…?」
「…、」
私の肩でコクコク頷いた。
久しぶりだ。二ヶ月ぶりかな。
「江戸に戻っていらしたんですね。」
「…。」
コクコク。頷きはすれど、顔を上げない。
…この様子、また傷ついて来た?
「どうされましたか?」
坂本さんの頭を優しく撫でながら声を掛けた。
この人は大戦の後、船で江戸を…地球を出た。今は商人として様々な星を駆け巡れるよう努力しているみたいだけれど、たまにこうして江戸へ戻ってきては夢路屋へ足を運んでくれる。ただ、
「ぐすっ…、……紅涙、」
「はい。」
この人はよく、
「わし……、…、」
「…なんですか?」
「……、……失恋したき。」
失恋する。
「そうでしたか。」
「そうでしたかって何ぜよっ!」
「っあ、」
ガバッと顔を上げた。丸いサングラスの奥に、涙に滲む瞳が見える。
「ごっごめんなさい。」
いつもの理由だから、つい受け流してしまった。
彼がここへ来るのは大抵、失恋後。しかも毎度同じ相手に失恋しているから凄い。
「また『おりょうさん』ですか?」
「っ!?なしてほがな言い方するがやァァ~っ!」
「えっ、あ…」
「紅涙~っ!」
思い出したとばかりに再び抱きついてきた。名前は地雷だったらしい。
「ごめんなさい、坂本さん。」
「うぅっ…ぐす、」
「大丈夫。もう大丈夫ですよ。」
坂本さんの背を優しく撫で、あやすように慰める。
「また時間を置いて、告白すればいいんですから。」
「わしにはもう手にあわん…、」
「そんなことありません。今までだって、何度振られても会いに行ってるじゃないですか。」
「けんど、こじゃんと振られてしもうたら…」
「坂本さんらしくありませんね。おりょうさんのこと、もう好きじゃなくなったんですか?」
「それは…、…。」
言葉を濁す。
本当に好きなんだなぁ…。
「じゃあもう少し頑張りましょう?今度はいつもと違う坂本さんを見せれば効果的かもしれませんよ。」
「いつもと違う…?」
「はい。これまでよりもっと紳士な振る舞いで会いに行くんです。そうしたら、おりょうさんもビックリするかも。」
「なるほど…、」
思案する表情に、涙はない。
…よかった。
「次に江戸へ帰って来た時が楽しみですね!」
「いや、わしはしばらく…、……。」
「?」
「……紅涙。」
「はい?」
おもむろに、坂本さんは掛けていたサングラスを外した。
「わしは、おまんのことも好きじゃ。」
「っ…、」
「だから夢路屋へも来ゆう。」
「…、」
私は知っている。坂本さんが心から愛する人は、おりょうさんただ一人。…だから、
「おまんとおりたい思っちゅうき、通うとる。」
これは、遊女としての私に投げ掛けている言葉だ。
「紅涙、」
坂本さんの手が私の頬に触れた。その手が首筋をなぞる。
「ッん、」
「ずっと気になっちょったが、」
「…?」
「これは誰ぞに付けられた痕じゃ?」
「っ!」
鎖骨の辺りをなぞられ、ハッとした。
「そ……れは……、…。」
忘れていた。
「とんだ男ぞね、痕ば残しよって。」
「…。」
「紅涙?」
「……、」
言えない。口にしたくない。
「…坂本さん、」
「ん?」
「目に触れさせて…申し訳ありません。」
「それは良か。わしは誰がやりよったか聞いちゅう。」
「…他のお客様のことは、お話できない決まりですから。」
「…。」
仲間うちなら良いのかもしれない。けれど…これに関しては、仲間うちだからこそ言いたくない。
「…銀時か。」
「!?」
「アイツは遊女っちゅうもんを知らんき。紅涙が商売道具やいうことを教えんといかん。」
「ちっ…違います!」
「違う?」
「銀ちゃんじゃ…ありません。」
「そしたら他にそんなことするヤツ言うたら――」
「坂本さん。」
言いませんよ。
首を左右に振って見せた。けれど、坂本さんも左右に振る。
「かまんき、言うてみ。わしがそいつにガツンと一言」
「坂本さんっ!」
「…。」
「…私は、ただの遊女です。どんな詮索もご法度。もう…皆と一緒にいた頃の私じゃないんですよ?」
「寂しいことを言いゆう…。」
「坂本さんも分かってるからここへ来てるんでしょう?」
「…、」
おりょうさんに失恋した坂本さんがここへ来る用事は、泣くためだけじゃない。泣いて、…癒してもらうため。
「ルールが守れないなら、お引き取りください。」
「……フッ、そうじゃな。」
小さく笑い、
「悪かった。」
あぐらをかいた膝に手を付き、頭を下げる。
「紅涙にまで嫌われてしもうたら、わしはもう生きていけん。」
「ふふっ、大げさですね。」
「大げさなことはなか。事実ぜよ。」
手を伸ばし、私のうなじに指を這わす。
「ッ、んぅっ…」
「わしの傷を癒せるのは、おまんだけじゃ。紅涙。」
「ァっ…ん、坂本さん…、」
「いつも言うちゅうが、こういう時は『辰馬』き呼べ。」
「たつ…ま……」
「それでええ。」
この人はいつもそう。
私に助けを求めてやって来る。
いつも甘え、いつも慰めを待つ。けれどどこか冷静で、時に凶暴さも併せ持っている。
それが、坂本辰馬という人。