二十三時
「……いえ。」
私が人の姿を得てから、今日で五日ほど経った。
相変わらず屯所の中を歩き回るようなことはなく、ひっそりと副長室の隣にある空き部屋で住まわせてもらっている。
…と言っても、ほとんどの時間は副長室。隊士の人達が書類提出に来た時だけ、空き部屋に隠れていた。
そんな夜遅く。
私はいつも通り土方様が机に向かう姿を、いつもと違う場所から眺めた。部屋の端に置いてある刀掛けの前。刀の時の私が掛けられていた場所だ。
「そんな端に座ってねェで、先に寝てろよ。」
土方様が小さく笑って布団をさす。その当たり前のように告げる口調に、私は少し、試したくなった。
本当に土方様は、刀である私を徐々に忘れているのか。
「…土方様、」
「んー?」
「……どうして、」
「?」
筆を置き、振り返る。私は自分の手を握り、尋ねた。
「どうして私がここにいるのか、分かりますか?」
「?…どういう意味だよ。」
小首を傾げる。
言っている意味が分からないだけならいい。けれどここ二日、おかしな発言は確かに増えている。日々の会話の中でもそうだが、一番は食事。私が何度『食事は必要ない』と言っても、忘れて必ず運んできた。
会話にしても食事にしても、初めのうちは訂正していた。でもその度に土方様の…
『そうだったな、…すまない』
戸惑いながら頷く姿を見るのがつらくなって、私は極力受け入れるようにした。
食事もする。刀の私にとって食べ物を摂取するというのは未知の行いだったけれど、やってみると意外にそこまで悪くはなかった。ただ、
「いつもこの場所に置いていたもの、何でしたか?」
「そこは刀掛けなんだから当然……あァ?」
いくら受け入れるようにしたと言っても、
「おい。そこにある俺の刀、一本足りねェじゃねーか。」
「……、」
日ごと増していく土方様の発言は、見過ごせなかった。
こんな状態でも仕事には影響していない。どうやら私のことだけを極端に忘れっぽくなっているようだ。
もし、そうだとするなら。
本当に私が刀であることを日々、忘れているのならば、
「っかしいな、どこにやった…?」
私を一人の人間として、一人の女として、
「知らねェか?紅涙。」
土方様は、傍に置いてくれるんじゃないだろうか。…そんな気がしている。
当初は人としての道など望んでいなかった。たった一度、会話が出来れば嬉しい。
…そう願うだけだったのに、この数日で土方様を…共に暮らす時間を知ってしまったから。
「刀は…研ぎに出されていましたよ。」
嘘を学び、
「そうか、そうだったか。最近忘れっぽくていけねェな。」
「……、」
欲しいものを手に入れる知恵を身につけてしまった。
…元々私は妖刀だ。きっと普通の刀よりも貪欲で、欲望に忠実な存在。『彼ら』はこうなることを予見していたのだろう。だからさっきあんな…
『自惚れるな、村麻紗』
あんな形で、私に訴えてきたのだ。
…さっき。土方様が夕食で部屋を出ていた時、私は、うたた寝をしていた。人になってから夢など見たことがなかったのに、初めて夢を見た。
『ここは…?』
真っ暗な空間にポツンと立ち尽くす。そこに、どこからか声が響いた。
『妖刀が幸いして実体と化したか』
「!!その声は…」
聞き覚えがある。
『自惚れるな、村麻紗』
「……。」
以前にも聞いた。…いや、以前話していた。
小言が多く、私に厳しいことばかりを言ってくる……土方様の、もう一本の刀だ。
『幻の姿を得るなど、恥。刀として、恥である』
「…私はそうは思わない。」
『うぬの意など聞いておらぬわ』
彼は土方様の刀として私よりも古く、博識。いつも冷静で現実的。特段、
『名前など貰うたところで、所詮は幻。消えるが運命。長くは続かぬ無駄な刻』
「……。」
私のことを嫌っている。
『主様にとってどちらを基とすべきか考えよ。否。考えずとも、主様が刀である村麻紗を求めていることは明白。現に探しておるではないか』
あれだけ聞こえなかった声が嘘のよう。
『この世の理に背き、主様にも矛盾を生じさせておる。わからぬか。辻褄の合わぬことをさせていることが』
騒がしいくらい闇に響く。まるでこれまで届かなかった分を吐き出すみたいに。
『いずれは薄れ、果ては無となり消える定め。刀は刀に戻るのだ』
…うるさい。
『幻がいつまでも形を留められると思うなよ』
うるさい。
「…もういい。」
『もって三日…否、二日か』
「それ以上…話さないで。」
『せめて名残なく滅せよ。それが、うぬに出来る贖罪であろう』
「紅涙?」
「!」
土方様の声にハッとする。
「ボーッとしてどうした?やっぱり眠いんだろ。」
「……、」
「寝るなら布団で寝ろよ。」
クスッと笑って筆を取る。再び机に向かった。
思い出していた刀の声は、いまだに私の頭で反響している。
残された日は…二日。
「……土方様、」
ならば。ならばせめて、私がこの姿であるうちに、
「…以前仰っていた、出掛ける予定。」
村麻紗としての私ではなく、土方様がくれた…この名で、
「明日に、行けませんか?」
「構わねェが…何かあるのか。」
「いえ。…ただ、明日がいいなと思いまして。」
跡形もなく消え失せる前に、あなたの心に…残りたい。
「…紅涙?」
「…っ…ごめんなさい…っ、」
私は…やはり妖刀です。残りたいなどと思う私は、悪なのです。
土方様にとって…害でしかないのです。
「なんだよ…泣いてんのか?」
「泣いて…ません…っ。」
「泣いてんじゃねーかよ…。おいおい、どうした。」
どれだけ色濃い時間を過ごしても、おそらく私に残せるものはないのだろう。それでも、こうして共に過ごした時間を…記憶のどこかに残してほしいと願う。
「っ…、ぅっ…、」
「…嫌なことでもあったのか?」
首を横に振る。土方様は慰めるように私の背中を撫でてくれた。
「ならもう寝るか。」
「…まだ、眠くはありません。」
「いや寝るぞ。訳もなく悲しいんだろ?そういう時は寝るに限る。」
土方様は布団の上に寝転び、自分の隣をポンポンと叩いた。
「俺も寝るから。お前も寝ろ。な?」
「いいんですか?…今日も、隣で。」
「当たり前だろ。」
「……。」
私の寝床は、以前から土方様の隣だった。布団の隣。畳の上。でも、人の姿を得てから同じ布団の中が定位置になった。
この幸せを…失いたくはない。
「土方様…、」
傍にある温もりを抱き締め、全身で感じた。ごく自然に私の背へ土方様の手が回る。
「あったかい…。」
「だな。」
「……、」
身体の中で何かがザワめいた。土方様が斬りたくなかったものを斬った時のように、言いえぬ何かが…込み上げる。
「私は……ずっと傍にいますから。」
たとえこの身が消えようとも、傍であなたを護ると誓います。…だからどうか、
「ああ。俺も…、…お前の傍にいる。」